まず話を聞いてもらわないと伝えることもできないので、求められるコードに従い最低限は「被害者らしくしなければ」と思う気持ちと、「被害者のイメージとは違っても自分のままを伝えたい」という気持ちでいつも悩み、引き裂かれていました。
実際には、被害を受けた後に肌を露出をするのが怖くなってスカートを履けなくなる方や男性と接することに恐怖を感じる方がいて、そういった方々がどれだけ苦しむのかを伝え、性暴力の与える影響の大きさを発信していく必要がある、と思っています。
その反面、私個人は回復途中で発信をはじめたことで情報を多く得られる立場にあったり、もともと学生団体やボランティアなどさまざまな活動をしていたりといった、やや特殊な経歴のおかげで、環境には大いに恵まれました。信頼できる男性も周囲に多かったのです。そのため回復が早く、男性の友人も多く、恋愛やセックスもできていました。浴びせられた悪意と同じくらいには人の優しさや美しさに触れることができ、「人を好きでいるのを諦めたくない」と思い、被害経験をバネにして前向きに動けていました。
スカートを履いていいのか葛藤する
しかし発信する当事者に求められるのは、自身の経験を語ることです。それが一番説得力があるからです。そのなかで、回復が早くイメージに合わない自分のパーソナリティと、多くの被害者が被害を受けたあとに見られる傾向とを、どう分けて伝えればいいのかと葛藤していました。
また性暴力の被害当事者として、メディアに出る機会があるときは「スカートを履きたい」「でも短すぎないものを選ばないと、そこばかり指摘されてしまう」「服装の批判ばかりになったら肝心の話が届かない……」と、ジレンマを抱えながら自分の気持ちとイメージの折り合いを付けて服を選んできました。
本来は服装は関係ないと伝えたいのに、その枠を意識しながらバランスを取ろうとする自分の矛盾に罪悪感を感じていました。
そして私は実は“男性向けオタク”で、アニメや漫画、そしてシナリオのよいエロゲ(18禁美少女ゲーム)が好きという一面があり、それについても被害者のドレスコードに合わないと長く葛藤した経緯があるのですが、それに関しては回を改めて詳しくお話します。
被害の経験はあくまでその人の一部であり、さまざまな段階があります。私と同じように被害者のドレスコードと異なる経緯をたどった方も多くいるはずです。それなら多様なケースの一例として、自分のパーソナリティを隠したり抑圧したりしたくない。でもそう思う一方、「私が前に出たせいで、ほかの被害者が誤解されないようにしないと」と“代表者にふさわしい聖人”や“正しい被害者像”のドレスを前に揺れていました。
問題がごちゃ混ぜにされる弊害
「被害者のイメージを押し付けられたくないなら、被害に遭ったことを隠せばいい」
「文句をいわれたくないなら、スカートを履くのをやめたらいい」
そんなことも言われます。でもこれは、本来は別個にある問題の論点を混ぜて、自己責任論に収めているだけです。私はそれに抵抗していきたい。問題を“切り分け”て考えていきたい。wezzyでは、前回お伝えした“知らないことによる枠”の話とともに、“問題の切り分け”もひとつのテーマとしていきたいと思います。枠に収めてしまう理由のひとつは、この“切り分け”ができていないことにあるからです。
たとえば「文句をいわれたくないなら、スカートを履くのをやめたらいい」というのは「“本当に被害に遭ったのならスカートを履けなくなるはず”というイメージを持っている人が多い以上、被害者と認められたいならそれを受け入れるべきだ」ということになります。「露出していると性犯罪に遭いやすくなる」という誤解、そして「犯罪に遭うのは被害者が自衛していないことが原因だ」「傷ついているなら、被害に遭いやすい格好をできるわけがない」という、“問題をすべてごちゃ混ぜにした主張”なのです。