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「泣ける絵本」の違和感。「母親の愛情」は万能ではなく、子供は親を許さなくてもいい

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 子供に常に優しく冷静に接することができたら、誰も育児で苦労なんてしない。子供に優しくしたい、よい叱り方をしたい、怒鳴りたくない、キレたくない、イライラしたくない、「早くしなさい」なんて言いたくない、冷静でいたい、毅然と振舞いたい。きつい物言いや感情的な振る舞いは、子供のためにはならない。いつも手抜き料理だし(手作りのおやつとか洋服なんて絶対無理)、「すごくいいママ」にはなれないけど、でも最低限、子供への接し方はちゃんとしていたい。そう思っていても、それがどうにも長続きしない。母親は産後、自動的に人格者になれたりしないし、むしろ体調不良や時間の余裕のなさ等で丁寧な子育てどころじゃなかったりもするのだ。

 だからといって、それによって理不尽に子供を怒鳴りつけるような行動は、肯定できるものではないだろう。母親自身もわかっている。わかったうえで、少なくとも自分自身に余裕ができるまでは、理想的な親として振る舞うことはなかなか難しいから思い悩む(そもそも理想的な親ってなんだろう)。「○○してくれたら(いってくれたら)」は、子供に対する愛情さえあれば、気づいた瞬間から簡単に実行可能な行動でもない。「母親の愛情」は万能ではなく、何かしらの困難を乗り越える術にはなり得ないと思う。

 なにより、これを「絵本」として、「子供に」読み聞かせることに、私は危機感を覚える。作者からのあとがきで、どんなにお母さんがおこりんぼうでも、子供はお母さんのことが大好きだし、「そんなお母さんを、子どもは、許してくれるのです。何度でも何度でも許してくれます」とある。本編の「ぼく」は、朝から晩まで急かされて怒鳴られても「ママ」のことが大好きだと言い続ける。子供に「許してあげなきゃ、大好きでいなきゃ」とプレッシャーを与え、親への許しを刷り込むことにならないのだろうか。

 子供にとって親は生きる手段そのものなのだから、たとえ「もう一緒にいたくない」と思っても、実行は難しい。この絵本では、母親が息子を怒鳴りつけていても根底に愛情があることになってはいるが、愛情があればいいというものでもないだろう。子供はいつまでも理不尽な親を許さなくてはならないのか、という問題につながっていく。母親にとっても、子供にとっても、プレッシャーになってしまう内容だと、率直に感じた。もう17刷のヒット作品なのだが。

 幼児期の親子の愛着関係が重要であることはわかる。一方で、『おかあさんだいすきだよ』に限らず、子供が親を無条件に慕い、許し、愛していると示して、親の涙腺に訴えかける作風は、私は受け入れられない。私は、自分が子供に愛されたくて子供を産んだわけじゃないし、今現在も自分が子供に愛されたくて子供の面倒を見ているわけじゃない(将来的にも、私をずっと好きでいてほしい、尊敬してほしいとも思わない)。子供は「かわいい」だけの存在ではないし、親や周囲の大人を癒すために存在しているわけでもないので(大人が勝手に癒されているだけ)、子供をやたら純真無垢な生物として描くことにも批判的だ。親子関係に過剰に重い意味を持たせたり、子供、あるいは母親を美化したり……そうした絵本が決して少なくないことは、子を育てる立場になって初めて気がついた。母性というものや子供の純粋性を、感動のために消費するという意味では、これもひとつのポルノなのかもしれない。

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