自分の気持ちに嘘をつかずに歌える「表現者としてのアイドル」
一方、つんく♂が作る女性アイドルの楽曲では、“僕”という一人称が登場することは少ない。若い少年少女の恋愛を描いた曲であっても、基本的に主人公は少女だ。たとえば、Berryz工房の『21時までのシンデレラ』という楽曲では、〈「付き合う」と言うコトバに/なんかあこがれてた/実際何をするのか/いまだにわかんない…〉と、恋愛に憧れるもまだ恋愛経験の薄い少女の気持ちを歌っている。同じくBerryz工房の『VERY BEAUTY』という曲では、〈また 鏡を見つめる/ああ どうしてこんな顔よ/明日の朝 目覚めたときには/美しくなってたらいいな〉と、自分の容姿に自身が持てない少女の繊細さを描いている。
これらの曲がリリースされた当時のBerryz工房のメンバーたちは、10代前半から半ばくらいの年齢だった。つんく♂は、メンバーたちと同世代の少女たちの気持ちを歌詞にしているのだ。
それゆえ、メンバーが年齢を重ねれば、歌詞の内容も変わってくる。たとえば、2014年にリリースされたBerryz工房の『大人なのよ!』では、〈周りが思っているよりもう/私は十分大人なのよ/だったらどんなKISSしたか全部/教えたら納得なの?〉〈彼氏のどんなタイプがいいか/そんなの私に押し付けないで/好きになった人が好きよ/付き合うのは私なの〉と、自分の気持ちをしっかり主張する能動的な女性が描かれている。この当時、Berryz工房のメンバーは全員が18歳以上となっており、まさに「大人なのよ!」と自立していく過程を描いた楽曲だったといえる。
つんく♂は楽曲作りの際に、メンバーたちの楽屋での話を聞いて、どんなことを考えているのか、どんなことが流行っているのかなどをリサーチし、それを作品に反映していたという。つまり、つんく♂は、アイドルたちが自分の気持ちにできるだけ嘘をつかずに表現できるような楽曲を作ってきたのだ。それが、つんく♂における「表現者としてのアイドル」のプロデュースということだったのだろう。そこには、10代という未成熟な時期であっても、アイドル1人ひとりを主体性を持った個人として扱う意識があり、既存の女性観を安易に受け止めず検証する姿勢がある。
対して、“僕”という主人公が存在する秋元康の楽曲に、アイドルたちの等身大の気持ちが投影されることはない。楽曲の主役はあくまで“ファン=僕”であり、アイドルは楽曲の中の“君”という存在に徹することが求められるのだ。そして、楽曲の世界をなぞらえるように、“ファン=僕”は“アイドル=君”に恋い焦がれ、CDを買ったり、握手会に行ったり、総選挙で投票したりといった形で消費行動を重ねていく。いわば、アイドルたちの価値は「表現者」としてのそれではなく、「いかに“君”となりうるか」、さらにいえば「いかに“ファン=僕”がお金を払いたいと思える“君”になりうるか」という点に重きが置かれている。
簡単な言葉で表せば、秋元康はアイドルを表現者ではなく、商品として扱っている。秋元康の楽曲は、ファンの消費を触発するためのものであり、商品としてのアイドルに対してお金を払いやすくする状況を作るための装置なのだ。