三浦瑠麗を批判する際にセクシズムを持ち出すことは性差別への加担になる

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『日本に絶望している人のための政治入門』(文春新書)

 メディアで非常に多く見かけるようになった国際政治学者の三浦瑠麗氏が東京新聞のインタビューに答えた記事が話題になっている。いわく、戦前回帰を心配する人びとが抱いている「戦前」のイメージには誤解があり、大日本帝国時代に人権を抑圧した時期は194345年のせいぜい2年間ほどで、それ以前は、経済的にも比較的恵まれた、ある種の豊かな国家であった、ということだそうだ。

 右派左派問わず、これまでも三浦氏の主張には多くの批判があった。今回のインタビューも同様で、例えばネット上では盛んに三浦氏への批判や検証がなされている。言論に対して言論で対抗することは健全な動きであり、この点は問題ではないだろう。だが、一方で三浦氏への批判の中で、常々気になっている点がある。それが三浦氏の容姿や仕草を揶揄するような言説だ。

 日本の国会議員における女性議員の割合はたったの2割程度と、非常に低い割合であることはよく知られている。政治の舞台だけの話ではない。メディアの討論番組をみても女性論客はせいぜい12人程度しか起用されていないことがほとんどだ。そうした中、三浦氏は頻繁にメディアにでる稀有な“女性学者といえるだろう。

 三浦氏に批判的な人の中には、彼女がメディアで多用される理由として「若いから」「見栄えがいいから」「落ち着いた話しぶりがいい」「おっさん受けする」など、彼女の容姿や話し方、仕草を挙げる人が少なからず存在している。これは三浦氏に限らない。なんらかの形で女性が表舞台に立つことになると、女性のこれまでの活動や主義主張ではなく、容姿などがその理由として挙げられることは多々見られる。一方、男性が何らかの形で舞台に立つ場合はどうだろう。「若さ」が理由となることはないわけではないが、女性に比べれば、その数は少ないのではないだろうか。

 つまり、三浦氏がメディアで重宝されることの理由として、あるいは彼女を批判する際に、容姿や仕草を取り上げることは、セクシズムに他ならないのだ。たとえ彼女の主張に同意できないとしても、このような言動を行うことは望ましいことではない。

 昨年5月に北原みのり氏が『週刊朝日』に「三浦瑠麗を真似してみた」という記事を寄稿していた。

 女友だちに会うと、「なぜオジサンは三浦氏が好きなのか」という話題になるというコラムで、三浦氏の話法を研究した北原氏の友人が、会社の会議で三浦氏の真似をしてみたところ、びっくりするくらいオジサン受けがよく、企画がすぐに通った、と書かれている。友人によれば、若い必要も美人である必要もなく、オジサンの意見を肯定した上で、解説をすれば、その後にどんなに意見を否定しても気が付かれないそうだ。

 当初この記事を読んだときには、これもまた三浦氏へのセクシズム的な揶揄ではないか、と困惑を覚えた。だがきちんと読み込むと、北原氏はここで別の問題を指摘していることに気がつく。

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