悲劇のヒール・エレクトロがヒーローにもなれた可能性『アメイジング・スパイダーマン』

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 また、リザードは弱い人間がどんな状態であれ、強くなるのはいいことだ、だから自分の開発した薬は人々の役に立つはずだと心から信じて行動しているので、それを阻むスパイダーマンを憎むようになってしまいます。

 そんなリザードに対して戦いの最中にスパイダーマンは「(今の姿は)本当のあなたじゃない、話し合いましょう」といいますが、話したくないとわかると(そりゃヴィランになったら判断力もおかしくなってますからね……)、「あなたに危害を与えたくない」とはいいつつも応戦。そのときにとれたリザードの尻尾を持ったスパイダーマンは一言「気持ち悪い」と言います。たぶん、スパイダーマン、異形は気持ち悪いと思っているのでしょう……。

 結局リザードは彼をトカゲ男たらしめていた薬剤の解毒剤によって人間に戻りますが、サム・ライミ版のように、ヴィランが自分の悪の行為に気づいて悟りを開くというシーンにはなりませんでした。もちろん、いろんな作り方があっていいのですが。

 最後の最後に、ピーターは「自分はヒーローであってもいいのか」という葛藤を見せますが、亡くなったベンおじさんが残していた留守電によって解決します。それは、とにかく、ピーターは正しい、ピーターこそがヒーローであると、彼を100%肯定する言葉でした。それもこれも、性善説がもとになっているというころがわかります。自分が力を持ったとき、それを駆使する資格があるのかを徹底的に問うサム・ライミ版とは真逆で、力を持った自分を自己肯定できるのが「アメスパ」なのです。

アメスパ2のヴィランはネッドになりえたのではないのか

 基本は善のヴィランは、『アメスパ2』にも出てきます。本作のヴィランは、スパイダーマンが街で助けたことのあるマックス・ディロンというオズコープ社の電気技師でした。

 彼は、髪もぐしゃぐしゃで眼鏡で冴えない風貌。真面目で優秀な技術者なのに、友達はおらず、エレベーターで一緒になったグウェン(ピーターの彼女)が、名前を憶えてくれただけでも、喜んでしまうような人でした。そして、一度助けてくれたスパイダーマンのことをヒーローと崇めている純粋な人でした(自分はスパイダーマンだと言い張る人に対して過剰に怒る偏狭さも描かれてはいましたが)。

 そんなマックスでしたが、オズコープ社で作業中に感電して、電気人間のエレクトロというヴィランになってしまいます。悪意のまったくないエレクトロは、自分が人を危険にさらしてしまうような存在になったこともわからず、警察の発砲を避けようとしていたら、知らず知らずのうちに人を危険にさらしてしまいます。何も悪くないのに、どんどん悪者にされ、そのうち崇めていたスパイダーマンを憎むようになってしまいます。

 こうした描写は、キングコングなどで見られるように、驚異的な力を持ってしまったばかりに、本人は何も意図していないのに凶悪な怪獣と見られてしまうというものに近いでしょう。しかし、悲しいかなエレクトロには人間の味方もいません(それは人間のときからでした……)。

 マックスを助けたときのことを覚えていたスパイダーマンは、市中でエレクトロを説得しようとします。でもトカゲ男のヴィランのときと同じ展開になってしまいます。ピーターは「話し合おう」とは言うものの、結局話し合うことはできないのです……。

 この後、エレクトロの力はどんどん強くなり、恨みもさらに膨らみ、街を破壊するまでになっていきます。何も悪くないのに、偶然が彼をヴィランにしてしまい、彼の本来持っていた優しさは何もいかされぬまま、スパイダーマンによって葬られてしまうのです(アメスパシリーズが続けば復活するということもあったとのことですが、それは叶いませんでした)。

 マックスことエレクトロは、映画の中では、オタクとして描かれているものだと思われます。オタクというのも意味が広いので、簡単に使うことがはばかられますが、サム・ライミ版『スパイダーマン3』でピーターが恋人のMJに対して、持っている知識を総動員して説明していると「オタクね」と言われるシーンがあり、ここではそんな意味合いで使っていると思ってください。

 今、公開中の『スパイダーマン・ホームカミング』でも、ピーターはオタクキャラであるし、その友達のネッドもオタクキャラであると言っていいでしょう。そして、マックスもまた、ピーター(アメスパのピーターは除く)やネッドのように、ただの善良なオタクだったはず……。本作ではマックスがうまく人とコミュニケーションをとれないことや、オタク側の人間であるということが強調され、実は優しいところもあるのに、環境によってそれが生かせず、単に恐ろしいヴィランにしかなりえない。そのことが私にとっては悲しいのかもしれません。ネッドにとってのピーターのように寄り添う人がいたら……、サム・ライミ版のベンおじさんのように、力の使い方に対して助言してくれる誰かがいたら……、きっと強大な力を、悪のために使わずに済んだのではないのかと思うと、マックスが不憫でならないのです。

 性善説では、もともと人は悪くはないけれど、環境や外的要因によっては悪くもなってしまうということだと言われています。この作品もまさに、悪い人ではなかったマックスが、「外」的な環境によって悪になってしまったことを描いています。そこは、自分の「中」の悪を徹底的に問うサム・ライミ版とはまったく逆の視点になっているのです。

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