「卵子は老化するから、若いうちに出産しよう」と説く“「卵子の老化」キャンペーン”の影響で、「卵子凍結保存」が注目されるようになったが、凍結卵子による妊娠確率は低いため、将来の出産に備えての「保険」にはならないと前回書いた。しかし、現実に凍結卵子を用いて無事出産に至った女性も存在する。
2016年10月に放送された「“老化”を止めたい女性たち 広がる卵子凍結の衝撃」(NHK『クローズアップ現代+』)によれば、全国で少なくとも44の医療機関が卵子凍結を行っており、合計で1005人の女性たちが卵子を採取、凍結。すでに85人が卵子を使用し、12人が出産に至っているという。
番組には、実際に凍結卵子を使用して出産した女性が登場。その女性は看護師として多忙な毎日を送っていた39歳のときに卵子を凍結した。凍結したことで「卵子の老化をストップさせた」と感じ、気持ちが解放されたという。40歳を過ぎてから結婚し、不妊治療をしたが妊娠せず、凍結卵子を使ったところ一度で妊娠した。しかしこの女性は、凍結卵子を使ったことを夫に言い出せず、子どもが2歳になったときに初めて告白。夫は「あなたの卵子であることに変わりはない」「よくやったね」とねぎらってくれたという。
すでに夫婦そろって体外受精という不妊治療に踏み込んでいるのに、なぜこの女性は凍結卵子を使ったことを2年以上も夫に話せなかったのだろう。夫が言うように、この女性の卵子であることに変わりはなく、そもそも将来妊娠しづらくなったときのために凍結していたのだ。凍結卵子を使うことを夫に反対されることを心配したのだろうか。
その理由について番組では触れられていなかったが、この女性の中に、まだ一般的とはいえない生殖技術を利用することに対する後ろめたさや、タブー意識のようなものがあったのかもしれない。
いまや不妊治療の代名詞のような体外受精も、始まった当初はタブー視されていた。
1978年に、イギリスで世界初となる体外受精児が産まれたとき、メディアはその子どもを「試験管ベビー」と呼び、科学者、政治家、宗教家たちがその是非を論じた。子どもの自宅には、嫌がらせの手紙や、子どもが欲しいのにできない夫婦たちからの「希望を見出した」という手紙がたくさん届いたという(1)。
日本では1983年に最初の体外受精児が生まれたが、このときも「奇形が出ないという成功率がはっきりしない限り、これは人体実験だ」といった批判が上がった。 「試験管ベビー」という言葉から、卵子と精子を試験管に入れて振り、9カ月経てば卵子の数だけ人間が出来るとでも勘違いしたのか、「労働力の補給のために人間を作ることも可能で、医学の悪用につながる」といった批判もあった(2)。
不幸にも日本初の体外受精児が誕生から2年で肺炎のため亡くなると、体外受精に対する風当たりはますます強くなった。
そんな中、体外受精で子どもを授かった看護師の女性と小学校教諭の女性が、実名で自らの体験を公表した。結婚以来13年間子どもができず、「子どもの作り方、知らないのか」「種が悪いのか、畑が悪いのか」(3)などの周囲の心無い言葉に傷ついてきた看護師の女性は、「職場には『体外受精治療のため』と明かし、休日願を出しました。体外受精治療を受けると宣言したのです。秘め事のようにしたら、決して子供を守ることにならないと考えました」(4)と語っている。
その後、年々体外受精による出産は増え続け、2015年には日本全国で42万4151件の体外受精が行われ、5万1000人余りの子どもが生まれた(5)。2015年の総出生数は100万8000人なので、20人に1人が体外受精で生まれたという計算になる。
もはや誰も体外受精児を「試験管ベビー」などとは呼ばない。体外受精の経験をカミングアウトした女性たちは、確かに「子供たちを守った」のである。
新しい生殖技術が登場すると、必ず「神の領域を侵した」という批判が上がる。しかし、人の命を左右することが神の領域を侵すことになるのなら、医学の存在そのものが神の領域を侵していることにならないか。このあたりは意見が分かれるところだろう。
いずれにしても日本では、とくに出産や育児に関して「自然であること」を求める風潮が強いため、「生殖医療」にひと言加えた「生殖“補助”医療」という言葉が積極的に使われている。
卵子提供によって出産した国会議員の野田聖子さんや、代理母を雇って出産したタレントの向井亜紀さんを見ていると、どうしても子どもが欲しいという人にとって、その思いはいかんともしがたいものなのだと感じる。彼女たちにとって、その思いを叶える生殖技術は「福音」だといえる。しかしその恩恵に預かれるのは、現時点では裕福な人たちに限られている。
もちろん、子どもが欲しいと強く願う人が存在する一方で、欲しくない人も厳然と存在する。このことを少なくとも政府は知っておく必要がある。「女性は皆、本能的に子どもを欲しがっている」という誤認に基づいた少子化対策は、必ず失敗に終わる。
(1)「世界初の試験管ベビーは37歳、その人生を語る」ギズモード・ジャパン
(2)2011年2月5日付『朝日新聞』夕刊
(3)2015年7月15日付『読売新聞』朝刊(仙台)
(4)(2)に同じ
(5)日本産科婦人科学会「ARTデータブック」https://plaza.umin.ac.jp/~jsog-art/2014data_201609.pdf
参考資料)大槻浩子『「体外受精」日記』主婦と生活者、小林亜津子『生殖医療はヒトを幸せにするのか 生命倫理から考える』光文社新書
※9月9日掲載後、最新のデータが公表されたため、9月13日に最新のデータに差し替えました。