エンタメ

竹内結子を「聖母」と崇める無神経と、女≠母の分断

【この記事のキーワード】

「女」から切り離される「母親」

 女優であろうがモデルであろうが芸人であろうが歌手であろうがタレントであろうがアスリートであろうが、“母”になった女性芸能人は、どんな母になりどんな子育てをするのか(“非常識”なことをしていないか)、産後復帰はいつになるのか、夫との関係はどうなのか、ファッションやヘアスタイルが子育てには不向きだったりしないかなど、いちいちチェックされ、ジャッジが下される。そして、自分のことよりも子供や夫を大切にしているというイメージを与えることに成功した時は(それが本人の意思かはわからないが)賛美されるわけだ。

 俗に言われる“女の幸せ”とは何だろう。この記事で意味するところの“女の幸せ”はおそらく“男に選ばれ、愛され、性的に求められること”もしくは“恋愛”であろう。それを最優先にするあまり不倫する女性芸能人がいる、と。確かにそういう使われ方もする。小説や新聞記事などでも、誰々は母であるより女でいたかった、といった表現を見かけるが、目にする度に、うっすら違和感を覚えてきた。

 そもそも子供を産む性別のことを女と呼び、子供のいる女親のことを母と呼んでいるのだから、(生物学的には)女じゃなければ母になれないはずで、だから母である人が女なのは当然だ。それなのに母になったとたん、なぜかその人は女とは別の生き物のように扱われ、“女”から分断される。女だから母になれたんじゃないのか。我が子の幸せを願う女は、母であり女ではないのか。しかも“母であるより女でいたい”と望む女性(母)に対しては軽蔑(母親なのに何事だ)が、“女よりも母である時間の長い”女性には侮蔑(女捨ててる)が向けられるのだから、面倒くさいことこの上ない。

 かと思えば“女の幸せ”は、結婚や出産などの“家庭を築くこと”であるとして、先の“男に選ばれ、愛され、性的に求められること”とはある種対称的な意味合いでも使われる。それともこちらの意味での“女の幸せ”を手に入れた女は、女ではなくなる、ということか。こうして女という性は社会的に引き裂かれている。

 記事にあるような「子供の成長に最上の幸せ」を感じることを“聖母”と絶賛する姿勢にも大きな疑問が残る。確かに親は子をなした以上は20年余り育てる責任があると思うし、私も我が子の成長を見た時は嬉しい。しかし自分の人生の主軸をそこに置いてしまうことで、子供に尽くしすぎたり、あるいは子供に過剰な期待を求めてしまったりする危険性も否めない。たとえば「毒になる親」についてテレビバラエティでさえ話題として取り上げるほど認知は広まっているのに、「聖母」という言葉はそうした家庭内の問題に接続されることなく、無神経に取り扱われていく。女は、母は、そんなに単純な生き物ではない。

1 2

「いいね!」「フォロー」をクリックすると、SNSのタイムラインで最新記事が確認できます。