『男色を描く―西鶴のBLコミカライズとアジアの〈性〉』(勉誠出版)は、副題にもある通り、前半には井原西鶴の『男色大鑑』の漫画化に関しての、後半にはタイ・インド・カンボジア・中国の性の多様性に関しての論考が並ぶアンソロジー。この2つのテーマをアジア全体に広がるBL文化という要素がつないでいるので、ひとつながりの読み物として十分に読むことができるし、「抱き合わせ」という感じはしない。
この書評の読者の多くは日本に住んでいると思うのでその前提で書いてしまうと、前半で「今ではない時代」、後半では「ここではない場所」の性の多様性について語られているので、「LGBT」という言葉に象徴されるような、日本でも一般的となった、性の多様性に関する西洋由来の枠組みにのっとるのではない仕方で性の多様性を考えるよい材料になると思う。
だからこそ、「面白いので読んでみてください」という話の前に一言だけ言っておきたい。本書の中で多用されている「LGBT」という言葉は、やっぱりなくてもいいんじゃないかなあ、と思うのだ。一つ目の理由は、レズビアンやバイセクシュアル女性のことにはほぼ触れていないから。
二つ目の理由は、本書の重要なポイントを誤解させる可能性があるから。先ほども触れたけれども、本書の扱う西鶴の作品や東アジアの性といった題材は、現代日本で一般的な性の多様性の理解とは異なる枠組みでまずは理解されるべきものである。と同時に、アジア全体に広がるBL文化は、そのような枠組みで理解されるべきものを、各地域の現在の文化にぐっと引き寄せて面白がる営みでもある。だから本書においては、さまざまな現象に関して「今・ここの枠組みとは異なるものである」「今・ここの枠組みに引きつけたものである」という正反対の読み解きが入り交じる。しかし、そのどちらかをはっきりさせてほしい場面で、「この現象は現在のLGBTの問題にも関連した重要なものです」みたいな表現に出会うと、違うから大事なの? 似ているから大事なの? どっちなの! と混乱してしまうのである。
それからもう一つ、「ジェンダーフリー」の人々、という言葉が何度か出てくるのだけれど、これもどういう意味かわからない(セクシュアルマイノリティのことだろうか?)。もともとジェンダーフリーは「男らしさ・女らしさ」にとらわれず個々の生き方を尊重する、というフェミニズムの考え方を指す言葉なので、それとは異なる使い方をしているなら一言注釈が欲しかった。
「お小言」ばかりになってしまった。でもここからが本番。ここまで書いたことを「これだから専門家じゃない人が性の多様性とかに首を突っ込むとロクなことがない」というニュアンスで受けとってしまった人、私がこれから言いたいのは全く逆のことです。文学やその他の専門領域を持つ学者やBL実作者が、あくまでその道の人として書いたり語ったりしたことこそ、私のような「LGBT問題の専門家」の目から見ても面白い。大ざっぱな言い方になるけれど、背景知識や経験の分厚さがあるからこそ、取り出してくる事例やその解釈がとても魅力的なのである。
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