「LGBTブーム」とも言える状況がここ数年続いていますが、近頃は「LGBTは儲かる」といった形で性的少数者の経済的な得を積極的に押し出す戦略と、その批判という対立が目立ち始めています。
そうした中で、活動を続ける保守派の存在が語られる機会は多くはありませんでした。しかし、実は現在アンチLGBT運動を行っている多くの団体は、20年前にフェミニズムへのバックラシュ運動を行っていた団体でもあります。当時起きたバックラッシュを見直し、20年の足跡を振り返ることによって、わたしたちは多くを学ぶことができるかもしれません。
今年8月5日、このような問題意識のもとで行われた公開研究会『道徳的保守と性の政治の20年—LGBTブームからバックラッシュを再考する』から「やっぱ愛ダホ!idaho-net」呼びかけ人代表である遠藤まめたさんの発表を紹介します。
【道徳的保守と性の政治の20年—LGBTブームからバックラッシュを再考する】
・ポストトゥルース時代に、性の問題を改善するためにできる3つのこと
・反性差別と「性別二元論」批判を切り離したフェミニズムの失敗を繰り返してはいけない
・フェミニズム・性的マイノリティを攻撃する保守勢力は、20年前から変わらない
・女性たちと性的マイノリティは共闘できる。「道徳的保守と性の政治の20年 LGBTブームからバックラッシュを再考する」レポート
「好きな異性がいるのは自然」と書かれた教科書
遠藤まめたです。今日は、LGBTの草の根活動家から見た視線、特に私が関わってきた政策提言、いわゆるロビイングの経験を踏まえて、バックラッシュについて考えていきたいと思います。
私は1987年生まれ、今年で30歳になります。今日のシンポジウムのテーマは、個人的にはとても胸アツでした。ちょうど私が10代の頃、図書館でいわゆるジェンダーフリーバッシング、性教育バッシングと出会いました。産経新聞などで、当時の学校でジェンダーや性について考えることがものすごく批判されているのを目の当たりにして、愕然としたのを覚えています。
女装家の三橋順子先生が、杉並区にある和田中学校に招かれたとき、ニューハーフを教壇に立たせるなとバッシングされていたこともよく覚えています。都議会で質問されたり、ビラを配られたり、新聞の投書欄などで批判されたりしていました。私は大学に入ってから実際にこの和田中での授業を観に行きましたが、とてもよい内容でした。
そんな経緯があるから、今日こうやってバックラッシュのときのことを振りかえる、というシンポジウムで発言できることは、個人的には感慨深いものがあります。
今日は、私がやってきた活動内容のうち、政治家へのロビイング、政策提言の部分について2つのトピックを取り上げ、日本の政治状況について考えたいと思います。ひとつは学習指導要領の改訂をめぐるキャンペーン。ふたつめは「それ以前」にやってきた要望についてです。
今の日本では、LGBT、あるいは「自分はそうかもしれない」と思っている子どもたちは、他の子どもたちに比べて孤立しやすく、自己受容が難しく、あるいは自殺を考える割合や、学校に行きたくても行けない割合が高いことが指摘されています。でも、日本の義務教育の教科書にはLGBTについては記載されていません。当事者の子どもは自分が何者なのかわからなかったり、周りの子は自分の友達にLGBTがいるとは知らなかったりして、「知らないこと」がさまざまなすれ違いをうんでいます。
例えば、中学校の「こころのノート」には「好きな異性がいるのは自然」と書いてあります。好きな同性がいたら不自然なんだろうか……? と、いろいろ勘繰りたくなる一文です。私と一緒に活動をしている室井舞花は、中学生のとき「思春期になるとだれもが異性を好きになる」という授業を受けて、目の前が真っ暗になったと話していました。
教科書に載っていないとなると、日本の学校でLGBTについて習う機会がないのかといえば、そうでもありません。授業を実践している学校もあり、友達を大切にできるかもしれない、といった前向きな感想をもった生徒もいます。つまり日本の学校は、ラッキーだったらLGBTのことを学べるし、そうでなければ学べないという状況にあるわけです。でも、まあそれじゃ困りますよね。
学校でなにを教えるのかを決めているのは学習指導要領です。10年に一度変わるといわれる学習指導要領ですが、実はこの春がまさに改訂のタイミングでした。
これまでの学習指導要領には、小学校の解説書に「思春期になると、だれでも遅かれ早かれ異性に惹かれる」と書いてあったので、それをまず変えよう。学習指導要領にLGBTが入れば、運によって子どもの未来が左右されることもない。そこでキャンペーンサイトを利用し、2万人以上の署名を集め、またロビイングなどをしてきたのですが……結果的に要望はもりこまれませんでした。
文部科学省のオフィシャル回答には、新しい学生指導要領にLGBTのことが載らなかった理由としてこのようなことが書かれています。①個々の児童生徒の発達の段階に応じた指導、②保護者や国民の理解 ③教員の適切な指導の確保 これらを考えると難しい。なので、みんなに対して教えるんじゃなくってカウンセリングなど個別対応をする。
子どもの発達にあわせた指導は、別にそんなに難しくはありません。先にも紹介したように、実践している学校では中学生たちからのリアクションはとても良いです。保護者や国民の理解がないから出来ないというなら、逆に、いったい学校で教えずに、どこで教えるというんでしょうか? どうやって保護者や国民の理解が促進できるのかを教えてほしいです。教員の適切な指導の確保が難しいということですが、教員はカウンセリングなどの個別対応はするといっています。教員がだめだから教えられないのに、その教員に相談しろって、無茶ですよね。そもそも、LGBTについて教えないで、はたして子どもたちは守られるんでしょうか。
子どもたちは知っていても、大人は知らない
「18歳までにLGBT当事者がだれにカミングアウトをしたか」を調査したところ、生物学的男子では約半数、女子では3割は、だれにもカミングアウトしなかったと言っています。さらに、打ち明けた場合の相手は、7割が同級生でした。大人に打ち明けるケースはかなり少なくなっています。
簡単にまとめると、LGBT系の子どもが10人いれば、4人は誰にも言えません。カミングアウトする6人のうち4人は同級生に話します。先生に話すのは1人です。ようするに、子どもたちの間で、先生に話しているのは氷山の一角であることがわかります。カミングアウトされた子どもは、きちんと受け止めるかもしれませんし、アウティング、つまり周りに言いふらしてしまうかもしれません。いずれにせよ子どもたちは知っていても、先生は知らないんですね。
というわけで、私自身は、LGBTの子ども・若者支援においては、同世代のチカラがカギだと思って取り組んできました。LGBTの子ども・若者支援では、友達の助けになりたい、という若者のチカラをうまく借りることが肝心です。大人が個別に見つけ出してカウンセリングを行うのは困難で、むしろ大人の役割は、同級生たちがポジティブな態度を示せるようあらかじめ働きかけることが重要であることがわかります。
だから、やっぱり学校でちゃんと教えないとダメなんですね、というのが合理的な結論です。でも、文部科学省は学習指導要領にLGBTを入れることには、やはり及び腰でした。
その背景には、何があったのでしょうか。
私たちにできる3つのこと
実は、私達が署名を集めている間、アンチLGBTの人たちもまた裏側で動いていました。
全部で二回あった、学習指導要領の改訂にあわせて行われたパブリックコメントでは、第一回のときは私たちが非常に攻勢で、「LGBTを載せるべきだ」というコメントは、寄せられた意見総数の12%を占めていました。ところが、第二回の最終パブコメでは、最後の5日間に、実に1100通を超える反対派のコメントが押し寄せてきて、数として逆転してしまいました。パブリックコメントの数だけが政策を左右されるわけではなくても、ある程度の数があるということは、他の人たち、たとえば議員などを動かす力もそれだけあるということです。
実際に寄せられたコメントを見ると、アンチLGBTのパブコメは、ほぼテンプレをなぞったものでした。ざっとみた印象だと、3~4団体以上が裏で呼びかけを行っているように思います。かつて15年前にジェンダーフリーバッシングを行っていたのと同じ団体が、メーリングリスト上でアンチLGBTのコメントを書くよう呼び掛けていたことも確認しています。具体的に言えば、日本会議や統一教会系の人たちを連想させるコメントが多く見られました。
これらの人々を見ていて、私が連想するのは「ポスト真実」という言葉です。客観的な事実より、むしろ感情や個人的心情へのアピールのほうがより影響力があるような状況のこと、とオックスフォードでは定義されているそうです。かつての日本の戦争犯罪がどうだったかとか、日本の伝統がどうだったかとか、だれが今どういう苦しい声をあげているかとか、全部どうでもいいんだろうな、と。
あるいは吉岡斉さんが、日本の公共政策は国策共同体の利害関係によって決まっているのであって、証拠や理屈では決まっていない、ということを指摘していますが、同じことを思ったりします。
こうした動きに対して、私たちは3つのことをやれると思います。
まず事実が軽視される時代であっても、事実をきちんと伝え続けること。次に、事実だけでは弱いので感情や個人的心情にも働きかける必要もあるだろう、ということ。さらに、国策共同体自体も、やっぱり変える必要があるということです。
一部の人たちが、日本を牛耳っているのは良くないのではないか。15年前、理不尽にも性教育をつぶし、ジェンダーフリーバッシングを繰り広げてきた政治勢力が思うがままにしてしまうのはよくないのではないでしょうか。
政府が動かすことと、動かさないこと
これまで私が関わってきて、比較的うまくいったことについても触れてみましょう。
ロビイングを始めてから見てきた変化について、3つのことをご紹介します。ひとつめが自殺総合対策大綱の中に、性的マイノリティがハイリスク層として取り上げられた2012年のこと。次が、文科省が「いわゆる性的マイノリティ」に初言及した2015年の文書。3つめが文科省が「性的指向」に初言及した2016年の文書についてです。
自殺総合対策大綱のときにも、官僚たちは性的マイノリティを盛り込むことに随分と及び腰でした。懸念事項として「国民の理解がないから自殺対策が出来ない」と言われた時には、本当にあきれるしかなかったのを思い出します。他にも、性同一性障害なら載せてもいいが、同性愛はダメだなどの駆け引きもありました。
でも、結局うまくいきました。これは熱心な議員がいたから、客観的な事実があったから、そして何よりLGBTというより自殺対策へのコンセンサスがあったからだと思います。当時は民主党政権で、官僚を叱責するように動いてくれた議員がいました。宝塚大学の日高庸晴教授らによる、ゲイ・バイセクシュアル男性のメンタルヘルスについての疫学調査が存在しました。LGBTに反対する議員はいても、自殺を減らす取り組みが大切であることには、ほとんどの人は賛同してくれましたし、マスコミも大きく動きました。LGBTの自殺対策の重要性については、事実だけでなく、みんながうなづける価値があったのだと思います。いわゆるLGBTブーム前でしたが、関心を持ってくれる人は多くいました。
文部科学省が「いわゆる性的マイノリティ」に初言及した2015年の通知については、有識者会議で議論している場に呼ばれて、あれこれ要望した経緯があります。低年齢の子どもたちは自分がトランスジェンダーなのか同性愛なのか迷ったり、アイデンティティが変わったりすることもあること。包括的な情報提供がないと、かえって同性愛の子どもがトランスジェンダーに間違われてしまう可能性があることなどを指摘した結果、「いわゆる性的マイノリティ」が文言として入りました。
ただし文部科学省は肝心の「いわゆる性的マイノリティ」が同性愛者を指すのかについては明言を避けていました。また、子どものGIDに関する資料のはずなのに、定義は性同一性障害者特例法における大人のGIDの部分から引用という現象がおきました。
その後、文部科学省が性的指向について言及したのが2016年です。これには事情があります。言及した文書がでる1カ月前に、自民党の特命委員会が発足したこと、そして資料の作成にあたって自民党アドバイザーの名前を添えたことによって、ようやく文部科学省としても、おそるおそる性的指向という言葉を使えるようになったのです。ただ、学校で教える場合には中立性に配慮する旨のクギがさしてあったり、教える場合の例示も「人権教育」であって、かつて地雷原であった性教育については触れなかったりという工夫もみられます。
以上が、いまの政治状況の中でも、一歩ずつ進んでいるLGBTをめぐる議論といったところでしょうか。こうやって見渡すと、何があれば動き、何がないと動かないのかが、わかりやすいと思います。
相手にとってはLGBTもフェミも全部一緒
今日の話をまとめます。今もジェンダーフリーバッシング時代の地雷原は生きていて、バックラッシュをしたい側も、官僚や政治家たちもそのことをしっかり覚えています。事実が軽視される時代では、事実だけでなく心情や価値への働きかけがないと、閉じているドアは開かないと思われます。私が関わってきてうまくいった事柄は、LGBTの問題というより、子どものいじめや自殺をなくすといった、比較的みんなが反対しづらい事柄だったから。つまり、みんなが共感できる価値を示せていたからという側面はあると思います。関わってみると、政治家の意見も意外と変わるな、という印象ですが、彼らを支えている支持基盤、票田、国策共同体に何らかの対策をしなければ、出来ることも限界があると思います。
LGBTの運動サイドは、自分たちはジェンダー平等の問題とは関係がないと思っていたり、フェミニズムの側は、LGBTとは「むこうがわ」の話だと思っていたりします。あるいはLGBTコミュニティの中にも、他のマイノリティの課題、たとえば在日コリアンへのヘイトスピーチのことと自分たちは関係がないと思っている人も多いと思います。でも、バッシングしている人たちから見れば、LGBTもフェミニズムも性教育も在日コリアンも全部一緒にうつっています。相手からみたら全部一緒なのに、こちら側は「いやいやちがう」といいながら分断している、という現状認識をまずは私たちがきちんと持つ必要があるでしょう。
だれかが声をあげているとき、あるいはだれかがバッシングされているとき。「あいつらは自分とちがう」「あいつらと一緒にされたくない」というのではなく、お互いから学び合い、新しい社会のビジョンを示していく場をもっと増やしたいと思っています。
(取材・wezzy編集部)