ブームから10年、今こそ「ケータイ小説」の話をしよう。

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 NAVERまとめやスマートニュースでは追えない世界だからこそ、私はケータイ小説が気になってしょうがない。だってケータイ小説は、その向こうにいる大勢の女性たちのニーズを、確実に満たし続けてきた存在なのだ。最大手ケータイ小説投稿サイト「魔法のiらんど」の会員数は250万人。そのうちどれくらいが小説に対してアクティブなユーザーかはわからないが、半分以下だったとしても、100万人くらいがケータイ小説市場に参加していることになる。スマホを持たない小・中学生などが書店で直接書籍を手に取ることも多いだろうから、サイト会員だけがケータイ小説読者というわけでもないだろう。さて、これをとるにたらない小さな世界と見るか、大きな世界と見るか。

 結論から言えば、私はこれを「大きい。少なくとも小さいとは言えない。10代の若年層が読者に多いことをふまえても、その影響を過小評価はできない」と見ている。が、これを人に言って、共感してもらえることはほとんどなかった。というよりも、前の記事にも書いた通り、そもそもケータイ小説がまだ存在していること自体、あまり知られていないのだ。

 この数年、いろんなメディアの編集者にケータイ小説の話をしてきたが、「え、まだあるんですかアレ」と言われなかったことがない。情報産業のメインストリームに関わる人たちでさえケータイ小説の存在に気づかないということは、その向こうにいる、大勢の女性たちのニーズもまた気づかれにくいものである、ということになりはしないだろうか。そしてそれは、あまりいいことではない気が個人的にしている。

 振り返れば、ブーム真っ只中の頃だって、「彼女たちのニーズ」というものが、本当に読み解かれたようには思えなかった。ものを語る立場の大人たちは、多くがケータイ小説の「浅はか」な内容に顔をしかめたし、自分自身の「理解できなさ」をもてあましていた……ように、少なくとも私には見えた。

 もちろん、当時出版されたケータイ小説の分析本・評論の多くは、「まっとう」な内容だった。単にケータイ小説を罵倒して終わるような、そんな志の低い本は私の記憶にはない。それぞれの書き手が、それぞれの誠意と知性をもって、ケータイ小説という現象を理解しようとした。それは確かである。しかしそこにしかない異様な力、あるいは切実さといったものに本当に迫るような、そういう分析に私は巡り合えなかった。物足りない、といつも思っていたのだ。それは多分多くの分析が、「自分には理解しがたいが……」という前置きを、つまり「あちら側」に対しての絶対的な線引きを必要としていたからだったと思う。「他人事として語られているケータイ小説」に、私個人はあまり興味がなかったのだ。

 そして当時、ケータイ小説に対して悪感情が発生することは、いわば「まっとうな大人にとっては当然のこと」として受け止められていた。評論家の中にも「内容に我慢できなくて本を壁に投げつけた」と著書に書く人がいたし、『恋空』(2006)のAmazonレビュー欄なんてすさまじいことになっていた。

 そう、覚えている方もいるだろうか。かつて『恋空』のAmazonレビュー欄が、2ちゃんねらーたちの遊び場になっていたことがあるのだ。単純にボロクソな批判を書き込むユーザーだけでなく、「縦読み」と呼ばれる、文章を縦に読むと別の言葉が現れるようにする手法を用いて、遊び半分で罵詈雑言を書き込むユーザーもあとを絶たなかった。

 これらは全て、「ケータイ小説(そしてその書き手・読み手)なんて、所詮まともに扱う必要のない存在だ」という意識に基づいてはいなかっただろうか?

 ネット上で10年前に起きたことなんて、太古の昔の物語に近い。しかし、かつて大人たちから(大人といえない年齢の人々もいただろうが)そこまでの過剰反応を引き出したコンテンツ群が、「ケータイ小説は、地方のヤンキー女子だけが読む、極めて特殊な読み物だ」というくくられ方ひとつで忘却の彼方に追いやられてしまったことに、執念深い私はいまだ納得がいっていなかったりする。

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