ブームから10年、今こそ「ケータイ小説」の話をしよう。

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 実をいえば私も最初は、『DeepLove』(2002)を「浅はか」だと思い、嫌悪感をむき出しにした一人だったのである。はっきり気色悪いと思ったし、「これに熱狂する人々」のことが理解できなかった。しかしだからこそ、気になって類似コンテンツを読み続けた。そして数年も読むうちに——ちょうど『恋空』ブームが起きる頃には、「これを理解したくない自分、理解できないものであってほしいと思っている自分」に向き合わざるを得なくなった。

 そうだ。理解したくなかったのだ。これについてよく考えたくないのだ、私は。

 それに気づいてからだ。ケータイ小説のことを、「自分ごと」として考えられるようになったのは。

 ケータイ小説を、私は浅はかだと感じる。その理由はたとえば、「セックスや病気や死が軽々しく扱われている」からだ。でも、じゃあどこからが「軽い扱い」で、どこからが「重い扱い」なのだろう? 何より、なぜ他ならぬ「私」は、「セックスや病気や死が軽々しく扱われている物語」が許せないんだろう? 許せない「私」と、それを愛する「彼女たち」の間には何が横たわっているんだろう?

 あまりにもたくさんの疑問があった。それをひとつひとつ考えるのに忙しくて、気づけば『恋空』ブームから10年も経ってしまっていたではないか。基本的に、長々とものを考える方なのである。

 しかしそのおかげで、「ケータイ小説と自分の関係」については、ひととおり考えをめぐらせ終わっている。私は何の専門家でもないライターだけれども、どんな評論家よりも、ケータイ小説との個人的な付き合いは長い(たぶん)。「線引き」をせずに何年もかけて作り上げた、この「ケータイ小説を見る自分」という土台の上に立ち、私は改めてケータイ小説の世界を見ていこうと思う。

 けっこう広いのだ。そして、けっこういろんなものがあるのだ。キュレーションメディアが拾ってくれない情報、Amazonレビューには上がってこない声、Instagramではアップされない光景を見に、ちょっくらあっちの方まで一緒に行きましょう。

※スマホが普及した2017年現在、ケータイ小説は、厳密には「ケータイ」小説ではなく、単に「WEB小説」の一端である。以前取材で話したケータイ小説編集者も、「あえて『ケータイ小説』という呼称を使うことはほとんどない」と話していた。しかし「魔法のiらんど」や「野いちご」といった大手サイトがあきらかにケータイ小説時代の独特なフォーマットを踏襲し続けていること、読者の間ではSNS上などを中心に、まだ根強く「ケータイ小説」という呼称が使われていることなどから、本連載でも基本的に「ケータイ小説」の語を用い続けていく。

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