少数民族の被差別と「女である」ことの被差別を同時に描く映画『サーミの血』

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©2016 NORDISK FILM PRODUCTION

『サーミの血』  アマンダ・シェーネル監督

 「スウェーデン」と聞けば、多くの一般の日本人は何となく平和で幸せそうな国というイメージを抱くのではないだろうか。不勉強なわたしは、即座に「福祉国家」という言葉以外に思い浮かばないほど、スウェーデン=人道的に良い国、という思い込みがあった。

 だから、この映画を見たときにはまず、スウェーデンに存在する「サーミ人」という少数民族と、彼らに対する激しい人種差別の存在に驚き、そして、差別と抗いながら生きる少女の姿に、動揺した。

 スウェーデンの都市で孫と暮らすサーミ人の老女は、決別したはずの故郷での妹の葬儀に嫌々出席する。二度と顔も見たくなかった家族や親戚たちと久方ぶりに顔を合わすうち、十代の頃の自分を回想することから映画は始まる。

 トナカイを飼い、テントで暮らし、幼い妹と二人で寄宿学校に通う主人公エレ・マリャは、近所の若者から差別的な言葉を投げかけられたり、進学したいと言っても教師から「サーミ人の脳は文明に適応できない」とすげなくされる生活から、なんとか抜け出したいと考えていた。

 そんな中、学校を抜け出しひとり忍び込んだ夏祭りで、都会的な少年と出会い、初めてダンスをし、キスをし、恋に落ちる。

 そのことをきっかけに、彼を頼って家族の元を去り街に出て行くエレ。偽名を使い、嘘をつき、彼女はただ自分が自由に生きられる場所を求める。

 タイトルこそ『サーミの血』だが、これはサーミであることから逃れたがっている少女の物語だ。しかし、自分が属する民族から逃げるとはどういうことなのか。そんなことは可能なのか。また、とどまり続けることが血を守ることになるのか。

 ヘイトスピーチなどが横行する現在の日本でも決して他人事とは捉えられないこれらの問題は、わたしたちの心にも深く突き刺さるものがあるだろう。筆者自身、在日韓国人である(ハングルもろくにわからないが……)。こういう映画をきっかけに、差別や偏見がいかに人を傷つけるか、苦しめるか、考えてもらえたらと思う。

女であるがゆえに受ける差別、奪われる権利

 そのうえで、この映画が特に優れていると感じたのは、主人公がただ「サーミ人」であるということだけでなく、十代前半のまだ幼さも残る彼女が、女性としても差別や好奇の目にさらされつつ、しかし、自分の中に生まれる「女」としての自我や欲望から決して逃げないという点である。

 身体検査で問答無用に大人の男性の前で裸にされるサーミ人の少女たち。まるで彼女たちには恥じらうべき資格もないような扱いを受ける。その屈辱は、女性なら想像に難くないだろう。主人公は、民族差別と同時に、女性差別の被害者なのである。

 だからこそ、生まれて初めて同年代の男の子に、人種など関係なく、女の子として扱われたことの喜び。その驚きも浮かれる気持ちも、痛いほどよくわかる。そして、周囲の同年代の女子たちとのスタイルやセンスの差を必死でごまかそうとする女ごころも。

 これらは、サーミ人だからとか日本人だからとかに関係なく、思春期の女の子あるあるとも言える、大人から見れば些細だけれど、本人にしてみれば人生を左右するような重要事項であり、主人公エレにとっても、民族差別に抗うことと同じくらい、やっかいな問題なのだ。

 そのことを「取るに足らない」とせず、すべてを「民族差別問題」と雑に矮小化せず、あくまで「サーミ人」の「エレ・マリャの物語」として語ったところに、この映画が単なる教育映画にとどまらない魅力があるのだろう。

 この主人公エレ・マリャを演じている少女レーネ=セシリア・スパルロクは、実際にトナカイを放牧しながらスウェーデンの山村で暮らす素人の女優だそうだ(妹役の少女とも実の姉妹だそうである)。86年生まれの女性監督自身もサーミ人とスウェーデン人の両親の元で生まれている。

 映画の構造自体にドキュメンタリー的要素があるわけではないが、しかし、彼女がカメラに向ける強い眼差しや固い意志を感じさせる言葉は、ひとりの幼い女の子を通して、世界の語るべき多くの/些細な問題を、遠い日本の観客にまで伝える力を持っている。

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