社会

ミッツ・マングローブ「差別的なものに蓋をする」ことへの懸念は社会に向けるべき。フジテレビ番組ホームページに載せられた「保毛尾田保毛男」謝罪文にみる僅かな前進。

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 定形謝罪の問題は、「なぜ、なにを批判されたのか」「なにが問題で、なにが問題ではないのか」といった議論が起きる前に、事態を収束させようとする点にある。それでは批判する側は、相手がどういう認識をしたのか、そしてその認識が正しいか間違っているかを判断することができないため、議論の余地がなくなる。また外からも、「一部の批判者が、特定の表現や言動を無理やり制限させた」という見え方になってしまうだろう。結果的に、誰もが、なにが本当に問題なのかわからず、ただただ「窮屈な思い」をさせられているような気になってしまうのではないか。「よくわからないけど、なんか文句言われるし、こういう表現はやめておいたほうがいい」という空気が蔓延することになってしまう。

 私たちが考えなくてはいけないことは、「保毛尾田保毛男」というキャラクターを出す/出さないということだけではない。その先にある、なぜ「保毛尾田保毛男」というキャラクターが問題とされるのか、ということを考えなくてはいけないのだ。

 ミッツ・マングローブは前述の記事の最後に、こう述べている。

「何はともあれ、『差別的なものに蓋をする』だけでは、何の意味もないことにそろそろ気付かないと。『多様性への理解と配慮』なんて聞き分けの良さそうな言葉を軽々しく口にするのなら、『普通じゃない人が隣にいる違和感』を、自分なりに分別し咀嚼する感性をもっと尊重し、磨かないと。

あなたの周りにも保毛男ちゃんはたくさんいます。それはあなたの友達かもしれない。家族かもしれない。同僚かもしれない。良い人かもしれない。嫌なやつかもしれない。誰より、それはあなた自身かもしれない。そして、何より愚かで恐ろしいのは、「自分は普通だ」と信じて疑わない傲慢さや鈍感さなのではないでしょうか?」

 ミッツ・マングローブが誰に向けて、「『差別的なものに蓋をする』だけでは、何の意味もないことにそろそろ気付かないと」と言ったのかはわからない。だが「蓋をする」のは、批判する側の言い方のみが問題ではない。批判された側もまた、定型の謝罪といった形で、耳をふさぎ、「蓋をする」ことが可能なのだ。

 マイノリティがマジョリティに対して、耳を塞がないで言葉を聞いてもらえるように気を使って言動を洗練させていくことと、マジョリティがマイノリティに対して、聞く耳を持とうとすること、どちらが望ましいだろう。ポリティカルコレクトネスによる息苦しさが指摘されるようになりつつあるが、その息苦しさは、批判する側だけの問題なのだろうか? 批判に向き合わない態度が、何倍にも息苦しさを強めているのではないか。

 ミッツ・マングローブは記事の冒頭にこんな一文も書いている。

「表面的な配慮をしてくれる世間に恩義を感じながら、当事者同士も『裏切り者』にならないよう気を遣い合う。なかなか窮屈な世の中になってきました」

 マイノリティがこうした思いをする状況もまた、聞く耳を持たない社会の側の問題なのではないか。だからこそ今回の番組ホームページに掲載されたわずかながらの前進に、一縷の望みを感じた。さらなる議論が進展することを願いたい。
wezzy編集部)

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