社会は頑張って異性愛者を育んでいる 同性愛は先天的か後天的かの議論を超えて

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Photo by zhouxuan12345678 from Flickr

「いつ自分が〇〇だって気づいたの?」「いつ目覚めたの?」

LGBT やクィアな私たちはよくこの無邪気な質問を受けます。〇〇には「レズビアン」「バイ」「同性愛者」「そっち」「オネエ」「ゲイ」など色々なものが入りますが、その都度私たちのほとんどは答えに窮します。なぜなら、ほとんどの場合私たちは気がついたらなっていた以外の答えを持っていないからです。

だから私たちは時に、答える代わりに質問で返すことがあります。

「じゃあ、あなたはいつ自分が異性愛者/ストレートだと気づいたの?」と。

こう問い返された異性愛者は、どのように反応するのでしょうか。「そうか、自分が気がついたら異性愛者だったように、この人も気がついたらそうだったんだな」と思うかもしれません。もしくは「なぜそんなことを聞かれなくてはいけないんだ、異性愛者になるのは当たり前じゃないか。何か目覚めるきっかけや気づくきっかけがなかったら普通は異性愛者なんだよ」と憤るかもしれません。

一見、この二つの反応は全く異なります。前者は、同性愛や両性愛が異性愛と同じように自然なものなのかもしれないという気づきです。一方後者は、異性愛は自然だが同性愛や両性愛は不自然なものであるという考え方です。

当然私たちは、前者の反応を期待しています。

「なんだ、あなたたちも同じ自然な性的欲望の持ち主だったんだね」

「そうなんだよ、あなたたちと何も変わらない対等な人間なんだ」

一件落着。めでたしめでたし。

……でしょうか。何かひとつだけ、全く問われていないものがありはしないでしょうか。

そう、ここでは「異性愛は自然だ」という仮説があたかも当然の前提のように全員に信じ込まれています。しかしそれは本当でしょうか。そもそも私たちは、社会全体でかなり頑張って異性愛者の育成に励んでいるとは言えないでしょうか。

同性愛の発生原因をめぐる議論 〜科学の立場から〜

同性愛がどのようにして発生するのか——私たち人間は宗教や科学の分野でそれを説明しようと躍起になってきました。ある時は精神疾患として、ある時は犯罪心理として、またある時は悪魔の化身として。そのいずれの説明においても、同性愛はなんらかの悪しきもの、除去されるべきもの、予防されるべきものと捉えられてきました。

今ではできる限りそうした偏見を持たずに解明しようと、心理学、生物学、社会学などからジェンダー研究、セクシュアリティ研究まで多岐にわたる研究が進んでいます。しかしいま科学的に分かっていることは「先天的な要因と後天的な要因のどちらもあると予想される」ということくらいで、何かコレという発生原因を突き止めてはいないのが現状です。

「あいつらとは違ううちら」の危うい境界線 〜社会構築主義の立場から〜

私たちには様々な属性があります。「レズビアン」や「バイセクシュアル」、「女」など性の属性の他にも、民族や国籍、障害、趣味、政治思想による属性もあります。このうち、先天的だ、変更不可能だ、変更は難しいと思われる属性に基づく差別については、それを非難する方向に世界が動いています。

しかし様々な研究や調査によって、属性は身体が持つのではなく社会との関わりの中で意味を持つことが指摘されています。これは社会構築主義と呼ばれる立場です。

例えば人種の議論では、「白人」概念の歴史的変遷の研究が行われています。100年前だったら白人とされなかった人がいま白人とされていたり、当時だったら黒人とされた人がいま白人とされていたりと、人種の境界が歴史的に変わってきている、つまり社会や文化のあり方に左右されているということがわかっています。障害の議論でも、「健常者」と「障害者」の境界がいかに社会の仕組みによって設定されているのかの議論が行われてきました。「男性」についても、「こういう人が男性だ」という通念は歴史的に変わっており、また医療においても人の性別を振り分ける基準は外性器なのか内性器なのか染色体なのかなどの議論があります。翻って日本においても、明治〜昭和のあいだに「日本人」の範囲が急激に広がったり狭まったりしました(そうした政府の都合によって翻弄され続けている人が今でもいます)。

これらの属性はたいてい優位な属性と劣位の属性に振り分けられています。それは「△△(劣位の属性)ではない〇〇(優位な属性)」——つまり「あいつらとは違ううちら」——という風に人が語り合ったり、法律などの公的な文書にしたり、新聞などのメディアを通して伝えたりすること(こうしたありとあらゆる言語活動の集合体を「言説」と呼びます)の繰り返しによって、境界線を明確にしたり引きなおしたりしながら優劣の上下関係を常に調整し、保っているのです。

前回の記事で紹介したように、私たちが性的指向という概念で人の性のあり方を説明し始めたのはたかが数百年前のことです。同性愛という概念が、「正しい性のあり方」を中心とする序列の劣位に置かれ、正しくない、悪いものとして生み出されたのです。いやむしろ逆かもしれません。正しくない、悪いものとして様々な概念を生み出すことで、最後に残った中心部分を「正しい性のあり方」としたとも言えるでしょう。その中心部分に、「同性愛ではないもの」としての「異性愛」概念が生まれました。異性愛と同性愛という概念は等しく歴史上の産物であり、ほぼ同時期に生まれた概念なのです。

異性愛に「発生原因」はあるか?

こうして見てみると、人の性のあり方について特に同性愛ばかりがその発生原因に注目されること自体、何かおかしいことだと気づくと思います。私たちはなぜ、異性愛的な欲望がどう生まれるのかとか、それは先天的なのか後天的なのかとか、そういった議論をあまりしてこなかったのでしょうか。例えばセクシュアリティ研究と言われる時の「セクシュアリティ」はたいてい異性愛以外のもの——特に同性愛——あるいはフェティシズムなどの欲望のあり方を指していて、「普通」とされる異性愛は研究の対象にあまりならないのです。

私たちの社会は、異性愛をあまりに当然と思っているために、異性愛に「要因」なんてものを考えること自体を放棄しています。あたかも、人はボーっとしていれば異性愛者になるはずだと言わんばかりに。

はたして異性愛はそんなに自然発生的なものなのでしょうか。ここでは二つのレベルに分けて話をする必要があります。ひとつは、科学的に同性愛が今のところ「先天的な要因と後天的な要因のどちらもあると予想される」としか言えないのであれば、異性愛もまた同性愛と同じように、その程度しか予想できないものだろうということです。これは、性的指向という前提を受け入れた上で公平中立を保とうとすれば採用せざるを得ない、科学に基づく平等主義の立場です。

もうひとつは、そもそも異性愛という概念がない時代を人類は約二〇万年過ごしているのに、本当に私たちが経験する性的欲望を「異性愛」や「同性愛」とくくることなんて不可能だということです。これは先ほど話した、人間の持つ「知識」自体を歴史上の産物と解釈し、その知識が言説の繰り返しを通して私たちの認識や感覚にまで影響を及ぼしていると考える立場です。これは先程説明したように社会構築主義と言われます。

科学に基づく平等主義を採るか、社会構築主義を採るかは個人の考え方次第でしょう。しかしどちらの立場を採用するにしても、異性愛を自然の、本来の、先天的に決まっているものだと前提視することは不可能になります。つまり、科学に基づく平等主義をベースに考えても、社会構築主義をベースに考えても、人間のほとんどが自然に異性愛者になるなんてことはあり得ない、という結論に導かれるのです。——これがこの記事の最も重要なポイントです。たったの八〇文字なので、丸ごとコピーしても URL 込みでツイートできます。さあ是非!

私たちは異性愛者を育成している

異性愛の発生原因については、セクシュアリティやLGBT、アイデンティティの議論よりも、実はフェミニズムに多くのヒントがあります。アダルトコンテンツからバラエティ番組、妊娠出産中絶や家族に関する法律、学習要領や性教育の内容、もっと言えば「男の子なんだから、女の子を守ってあげなきゃ」「女の子がそんな格好したらダメだよ」という大人たちの言葉まで、単体では直接影響を及ぼさなくとも、総体として私たちのジェンダー観や性的欲望のあり方に影響を及ぼしています(「新しい効果理論」などを参照)。そうして影響を受けた私たちがポルノグラフィーやバラエティ番組を作り、法律や学習要領、性教育の内容を作り、そして小さい子どもを育てることで、影響は世代を超えて引き継がれていくのです。

異性愛は自然だが同性愛や両性愛は不自然なものであるというメッセージは社会のそこかしこにあります。日常生活やメディアだけでなく、例えば先日2017年10月22日の選挙で改憲に必要な議席を確保した改憲派政党(自民党など)が目論んでいる改憲には、結婚や家族に関する憲法改正も含まれています行政が市民の「婚活」を税金を使って支援する例などもあります。これらは少子化対策としての施策なのでしょうが、明確に市民に対して「異性に性欲を感じなさい、異性を愛しなさい、異性と結婚しなさい、異性とセックスをしなさい」と奨励していることがわかります。ゲイ男性の文化に「ハッテン場」というものがありますが(この Wezzy 記事でも触れられています)、私たちはすでに常に日常生活どこに行っても異性愛者のハッテン場にいるような錯覚すら覚えます。

社会の総体として、私たちは大規模に入念に、かなり頑張って異性愛者の育成に励んでいると言えるでしょう。

先天的か後天的かを越えて 〜正しそうな欲望から疑え〜

同性愛は先天的か後天的か——この議論には今のところ、ろくな結論が存在しません。しかしこの議論について、確かに言えることがいくつかあります。ひとつは、同性愛の発生原因にばかり注目してきた私たちの社会が、異性愛を自然なものとして自明視し続けてきたということです。しかし実際には、私たちはとても頑張って異性愛者の育成に励んでいます。もうひとつは、同性愛者を差別する人は、同性愛が先天的か後天的かに関係なく差別するということです。例えば私が同性愛者を差別したいと思う人間だったら、先天的でも後天的でも関係なく差別するでしょう。「先天的? だったらお前らは生まれた時から劣っている種類の人間なのだな」、「後天的? だったらお前らのその劣った性癖は矯正されるべきだな」と。事実こうした主張が差別主義的な人たちによってされてきた歴史があり、それへの対抗言説は「先天的か後天的かなどどうでもよい。差別をやめろ」しかありえません。

同性愛以外にも、両性愛、パンセクシュアル、デミセクシュアル、アセクシュアル、小児性愛、SM、もっと言えば寝取られ、近親相姦、二次元、欠損萌えや、特定の民族へのフェティシズムなど、人間の性のあり方は多種多様であり、その欲望の発生原因が何であったとしても、そうした欲望を持っていること自体を根拠に差別することが正当化できるわけがありません。

科学の大発見を目指すわけではないなら、議論すべきは、そうした欲望がどのように語られ、優劣の序列を付けられているか——つまり、言説がどの欲望に「正しい」「許容されるべき」という特権的立場を与え、どの欲望に「正しくない」「忌避されるべき」という烙印を押しているか——でしょう。

その上で、なぜそうなっているのか、特定の欲望を正しいとすることで誰が得をしているのか、特定の欲望が正当化される根拠に不正義が混じっていないかを考えるべきだろうと思います。例えば、英語圏から発展途上国に旅行した白人が英語のおぼつかない現地の人と恋に落ちる映画がたくさんあリます。そこで美しいラブストーリーとして表現されている欲望は、果たして人種差別や民族差別、植民地主義と無関係だと言えるでしょうか。

問題があるのではないかと疑われるのは、いつも「正しくない」とされている欲望です。しかし、むしろあるかもしれない問題が隠蔽されている「正しい」欲望こそ、疑ってみる必要があるのではないでしょうか。

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