少し前にインターネットを騒がせていた言葉に「キモくて金のないおっさん」というものがあります。これは社会的弱者であるが権利運動とか救済の対象として想定されていない男性を指す俗語です。
このおっさんたちはどうやら非常に社会的、経済的に苦しい状況に置かれている一方で、マイノリティとして見えづらいため女性とか少数民族、セクシュアルマイノリティ、障害者などに比べると自己主張しづらい状況に置かれているそうです。「キモくて金のないおっさん」については、こうした不可視化、つまり存在が認識されていないことが問題だと考えている人が多いようです。
しかしながら、私の見るところ、文学史上にはあまたのキモくて金のないおっさんが登場します。そこで今回は私が個人的にキモくて金のないおっさん文学の名作だと思っている、ジョン・スタインベックの『二十日鼠と人間』と、アントン・チェーホフ『ワーニャ伯父さん』をとりあげ、古典がどのようにおっさんを掘り下げているのか見ていきたいと思います。
※『二十日鼠と人間』の引用については、基本的に原書はJohn Steinbeck, Of Mice and Men (Penguin Books, 2002)を使い、日本語の引用は拙訳ですが、大門一男訳(新潮文庫、1993)も参照しました。『ワーニャ伯父さん』についてはアントン・チェーホフ『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』浦雅春訳(光文社、2009)に拠ります。
キモくて金のないおっさんとは?
分析するからにはまず「キモくて金のないおっさん」とはどういう人かイメージせねばなりません。困ったことにこの言葉は大変曖昧でわかりにくいところがあります。金がないのはまあわかります。「おっさん」というからには自分のことを男性だと考えていて、どんなに若くても30過ぎでしょう。「おっさん」という言葉自体にネガティヴな雰囲気があって本当はあまり使わないほうがいいのかもしれませんが、決まった言い方で流布しているものを言い換えるわけにもいかないので、この文章では「おっさん」という語を使用します。
問題なのは「キモい」の定義です。「キモい」というのは非常に主観的で、容姿や印象が悪いというような表面的なことから、人格面で高潔さや思いやりが皆無だというような人間関係に破壊的影響を及ぼすことまで、様々な意味で用いられているようです。青柳美帆子は湯川玲子などを引きながら、この言葉を「出世しておらず、カネがなく、女がなく、競争に勝てなかった中年(以上の)男性」として定義しています。女に好かれない、連れ添う女がいないというのはこの種の議論によく出てくる「キモさ」で、どうもヘテロセクシュアルの男性を想定しているようです。まとめると、キモくて金のないおっさんとは、ヘテロセクシュアルで、仕事も私生活もうまくいかず、金銭的に問題を抱えた中年以上の男性を指すようです。
キモくて金のないおっさんが社会から無視されてきたと思われる方もいるようですが、実は近現代文学はこのようなおっさんの宝庫です。お金もなく、女にモテず、不幸で若くもない男の絶望に対しては、19世紀からこのかた、アメリカやヨーロッパの優れた男性作家が関心を寄せてきました。イギリスやアイルランドの演劇にはこの手のおっさんが山ほど出てきます。サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』(1953)に登場するキモくて金のないおっさん、ウラディミールとエストラゴンの役には多数の名優が挑戦してきましたし、最近ではアイルランド系イギリス人の劇作家マーティン・マクドナーがこうしたおっさん劇を得意としています。少なくとも文学史上においては、キモくて金のないおっさんは無視されるどころか主役なのです。
女とおっさんが弱者同士足を引っ張り合う『二十日鼠と人間』
こうしたキモくて金のないおっさん文学の中でも、もっとも現代に通じそうな物語を紡いでいるのがアメリカ文学の古典であるジョン・スタインベック『二十日鼠と人間』(1937)です。大恐慌のあおりで貧困に苦しむカリフォルニア州の労働者を描いた中編小説です。主要登場人物のほとんどはキモくて金のないおっさんで、さらにそれぞれ異なる個性的なキモさ、つまり不幸の要因を抱えています。
主人公のジョージとレニーは農場を渡り歩く季節労働者です。ジョージは賢い小男で、レニーは力強く心優しい大男ですが、知的障害があります。2人は親友で、ジョージはレニーを守り、常に一緒に行動しています。レニーはふわふわした可愛らしいものが大好きで、動物でも布地でもそうしたものを見かけるとなんでも触って強く掴んでしまうため、悪気なく女性の服に触って変質者扱いされたり、動物を殺してしまったり、しょっちゅうトラブルを起こしています。この2人はあまり年齢がはっきりしておらず、おっさんというにはやや若いかもしれないのですが、30歳は越えているように思われます。一般的な意味ではこの2人はキモくないというか、読者の共感を誘うキャラなのですが、貧困のせいでとにかく不幸です。
農場で働く他の男たちもほとんどはキモくて金のないおっさんです。キャンディはかなりの年で、仕事中の事故で手を失い、障害を抱えています。馬丁のクルックスは背中が曲がっており、アフリカ系であるため他の労働者と同じ家に住まわせてもらえません。この2人も一般的な意味でキモい人物ではありませんが、貧しくぱっとしない独身男です。
おっさんたちはそれぞれ異なる要因で社会から疎外されているため、なかなか連帯できません。レニーは知的障害、ジョージはレニーとの絆、キャンディは老いと身体障害、クルックスは人種と身体障害のせいで不当な差別にさらされ、不安な暮らしを強いられています。非常に人望があり、キモくて金のないおっさんではないラバ追い名人スリムは、季節労働者は仲間を連れずひとりで移動するのがふつうだと指摘してジョージとレニーの友情を不思議がります。おっさんたちはふだん、分断されてバラバラに生きているのです。
このおっさんたちを結びつけるのが、おっさんだけで自由に安心して暮らせる共同体を作るという夢です。ジョージとレニーは型破りで同性同士の強い友愛で結ばれた2人組ですが、お金をためて農場を買い、そこに落ち着くという夢を持っています。これを知ったキャンディは自分がお金を出すのでその農場に入れて欲しいと頼みます。この話には、いつもは超然としているクルックスまで心を動かされます。分断されていたおっさんたちが、夢によって一瞬、連帯しかけるのです。最後はこの夢が儚く潰えるのですが、この作品が提示するキモくて金がないおっさんたちの救済策は、自分を好いてくれる女ではなく、気の合う同性同士でのどかに暮らせる安全な場所の確保です。
この作品が現代的であるポイントのひとつは、弱者であるおっさんたちが、また別の弱者である女を敵に仕立て上げてしまうところです。おっさんたちは金がなさすぎて結婚や恋愛のことはほとんど考えておらず、売春宿で気晴らしすることはあるようですが、それが解決にならないことは知っています。おっさんたちは異性愛が幸せをもたらしてくれるとは全く考えず、むしろ女がトラブルを運んでくることを恐れています。
それを象徴するのが、男たちがボスの息子であるカーリーの新妻に向ける視線です。カーリーの若く美人な妻は、新婚の夫が自分を思いやってくれないことに腹を立てています。不満をつのらせたカーリーの妻は男たちに話しかけて気晴らしをしようとしますが、男たちは彼女が自分たちに色目を使うふしだらでイヤな女だとして避けようとします。一見、美貌で結婚を勝ち取った「強者」に見えるカーリーの妻ですが、実のところ彼女は貧しく抑圧的な田舎で育ち、女であるため教育も受けられなければ自活できるような仕事にも就けず、肉体を武器に結婚する以外に男社会で生きる道がない弱者です。夫からも対等な人間として尊重されておらず、極めて不幸です。しかしながら同じく弱者であるはずのおっさんたちは自分をこき使う金持ちの男たちではなく、カーリーの妻を敵視するのです。現在の弱者男性に関する論議では、時として「勝ち組」とされる、結婚や仕事でなんとか生き抜いた女たちがひどく敵視されることがありますが、この弱者同士の争いを予見しているかのような展開です。
小説ではこのあたりの描写はやや薄っぺらく、カーリーの妻は不愉快な女に見えます。しかしながら2014年にこの小説の戯曲版(もともと小説が演劇的な構成で、スタインベック本人により戯曲化されました)が再演された際、カーリーの妻役を演じたレイトン・ミースターは史料調査にもとづくフェミニスト的な読みをまじえて社会の犠牲者である女性として役作りを行いました。作者のスタインベックは初演の際、カーリーの妻は常に男性から性欲の対象として扱われてきたにもかかわらず、結婚まで処女でいなければならないという抑圧も受けてきており、この矛盾ゆえに意義ある人間関係を築けなくなっている女性として演じてほしいという手紙を書いており、ミースターはこの手紙を研究したのです。ミースターが出演したプロダクションはジェームズ・フランコとクリス・オダウド主演でナショナル・シアター・ライヴにより日本でも映像が上映されたので、ご覧になった方もいるかもしれません。観客にも男性中心的な偏見が染みついているため、ミースターの役作りが完全に理解されたわけではなかったようですが、少なくとも私が見た限りでは新解釈が芝居に奥行きを与えているように思えました。このように再解釈によって刷新することが可能なのも、古典の魅力のひとつです。
『二十日鼠と人間』は悲劇的な結末を迎えます。おっさんたちが見た夢は、異性愛からはみ出た人間同士の多様な関係を認めず、障害や貧困、異人種などを迫害する抑圧的な社会によって打ち砕かれます。幸せが訪れることはありませんでしたが、この作品はキモくて金のないおっさんを苦しめる社会に対して強い批判を投げかけていると言っていいでしょう。
全員、人生が詰んでいる『ワーニャ伯父さん』
アントン・チェーホフの戯曲の特徴は、登場人物ほぼ全員の人生が詰んでいるということです。チェーホフの作品にはキモくて金のないおっさんがたくさん登場するのですが、おっさんどころか才能ある若者とか、大変な美女とか、「勝ち組」扱いされそうな連中もめちゃくちゃ不幸です。そこを突き放しつつ、哀愁をまじえてリアルに人生を描き出すのがチェーホフです。
『ワーニャ伯父さん』(1899年初演)のタイトルロールであるワーニャは、『二十日鼠と人間』のジョージやレニーに比べればだいぶ恵まれています。一応健康で、明日の食べものにも困るほどの金欠ではありません。住まいも家族もあり、しっかり者の姪ソーニャがいろいろ助けてくれます。
しかしながらワーニャはたいへん不幸です。ワーニャは亡き妹の夫セレブリャコフ教授の学識を尊敬し、妹の残した屋敷を管理して、その収益を都会で暮らす教授に送金していました。ところが47歳になったワーニャは、自分が独身で手もとにはたいした財産もないということに気づき、実はたいした才人というわけでもない教授に搾取されてきただけだと考えるようになります。ワーニャは教授の若妻で27歳の美女エレーナに言い寄ろうとしますが、うまくいきません。
この作品の残酷さは、観客がワーニャをいくら可哀想と思っても、彼のキモさ、つまり感じの悪さや性格の欠点にも気付かざるを得ないようになっているところです。娘のソーニャを田舎にほったらかして自分は収入を吸い上げ、ろくに感謝もしない教授にいいようにされてきたワーニャは気の毒ですが、この作品に登場する他の人々に比べてとくに人格などが優れているわけではなく、どちらかというと気難しくてあまり人好きのしない男です。ワーニャが初めて会った時にエレーナに求婚していれば……と妄想して独白するところは、彼がいわゆるキモいおっさんであることを残酷なまでに明らかにしています。
あのとき彼女は十七で、ぼくは三十七だった。どうしてあのとき恋してプロポーズしなかったんだろう。やろうと思えばできたじゃないか。そうしていれば、あの人は今ではぼくの妻だ……。そう……。さだめし今ごろは、二人して嵐に目を覚ましていることだろう。彼女は雷鳴におびえている。ぼくは彼女を抱き寄せて、ささやきかける。「さあ、心配はおよし、ぼくがいるからね」。ああ、考えるだけでうっとりするなあ。思わず笑みまでこぼれてくるじゃないか……。(第2幕、pp. 47–48)
ここでワーニャは「20年前に求婚しても断られたかもしれない」という、観客ならば当然思いつく可能性をまったく考えずに妄想に浸っています。ワーニャは教授に比べると学識はないし、森林保護活動家でやはりエレーナに恋している医師アーストロフのように情熱的な理想を持っているわけでもなく、知的な男が好みらしいエレーナの気を惹けそうなところはありません。以前『西の国のプレイボーイ』に関する記事で、自信が無さそうなわりになぜかヒロインと結婚できると信じ込んでいる男性キャラクター、ショーンに触れましたが、ワーニャもあまり自分に魅力が無いことは知っているのに、ついついエレーナと結婚できたかもとか思ってしまうのです。
この戯曲のポイントは、ワーニャのキモさが平凡な人間であれば誰でも持ち合わせているような要素であり、観客に「ワーニャはキモいけど、つらい時は自分も含めて誰でもああいうキモいことを考えるよな」という自省に導く作用があるところです。ワーニャは『二十日鼠と人間』に登場する男たちに比べるとかなり文字通りキモいおっさんですが、それでも観客はワーニャが自分たちに近いと考えます。ワーニャは結局、財産のことで逆上して大騒ぎし、自殺を試みるが失敗するという結末を迎えます。この結末はワーニャ自身のあまり感じがいいとはいえない性格を示すものである一方、観客の親近感を誘うものでもあります。
この作品のもうひとつのポイントとして、キモくて金のないおっさんは不幸だが、若いのにキモい女も実に不幸だ、ということが示唆されているという点があります。ワーニャの姪ソーニャは親切で感じも良く、普通の意味でキモい人ではありませんが、不美人で自分でもそれをよく理解しています。第3幕では美女エレーナの前で、不細工な自分に対して他人は皆気を遣うのだと告白までします。ソーニャはアーストロフに恋をしていますが、相手にされていません。そんなソーニャですが、自殺騒ぎを起こして死ぬことすらできなかったワーニャに対して「ひょっとすると、あたし、伯父さんよりずっと不幸かもしれない。でも、あたし、自棄なんかおこさないわ」(第4幕、p. 114)となだめます。ワーニャはまだ男として不幸を騒ぐことが許されているのですが、ソーニャは周りから女として家を守り、他人を助けることを期待されていて、その役割を覚悟して引き受けています。
このソーニャの台詞は、人生のつらさ比べをしてもあまり意味はないのだ、という諦念をも示唆するものです。この作品では、ワーニャやソーニャはもちろん、美女のエレーナであろうと、色男のアーストロフであろうと、全員等しく人生がどん詰まりです。エレーナは不幸な結婚生活を続けますし、アーストロフは失恋して酒浸りです。美しかろうが不細工だろうが、若かろうが年だろうが、様々な理由で人生はつらいし、笑っちゃうくらい不幸だというのがチェーホフ劇なのです。
『二十日鼠と人間』も『ワーニャ伯父さん』もキモくて金のないおっさんについての物語ですが、方向性はだいぶ違っています。『二十日鼠と人間』ではおっさん同士の女性を介さない連帯の可能性が語られますが、その夢は容赦なく社会につぶされます。『ワーニャ伯父さん』では全く解決が提示されていません。一方で弱者男性が女を敵視する『二十日鼠と人間』に対して、『ワーニャ伯父さん』ではキモいおっさんと同じくらいつらい女や色男も登場します。結末は表現のスタイルは違いますが、こうした名作が時代の壁を越えてキモくて金のないおっさんに声を与えてきたことは確かだと思います。皆さんも是非、いろいろな本をひもといて、過去の作家たちがいかにキモくて金のないおっさんたちのことを真剣に考えていたか、知って欲しいと思います。
参考文献
John Steinbeck, A Life in Letters, ed. Elaine Steinbeck and Robert Wallsten (The Viking Press, 1975).
John Steinbeck, Of Mice and Men (Penguin Books, 2002).
ジョン・スタインベック『二十日鼠と人間』大門一男訳(新潮文庫、1993)。
アントン・チェーホフ『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』浦雅春訳(光文社、2009)。