ケータイ小説のポエムは、「あなたの物語」という安全な世界を創造する

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「ふんわりした言葉」は、「これはあなたの物語」と語る

 ケータイ小説とは、「自分にとって遠いかもしれない、異物かもしれない存在の物語を読み解く快楽」を提供するコンテンツではない。では何を提供しているのか? 私の見方でいえばそれは、「『これは私の物語でない』と思わせる要素を極限まで除去した、安全な世界」である。

 ここで重要なのは、「安全な世界」をつくるのに必要なのは、要素の付加ではなくて、除去であるという点だ。現実とひもづくさまざまな具体性を、極限まで削っていった先に残る物語こそが、ケータイ小説ユーザーにとっての「安全な物語」なのである。かつて人気を博した、固有名詞をちりばめることによって空気感を作り上げていた小説——たとえば田中康夫の『なんとなくクリスタル』(1980)、村上春樹の『風の歌を聴け』(1981)などとは、正反対の姿勢だと言える。

 具体性を、固有名詞を削りに削っていくから、文章はどんどん抽象的に「ふんわり」していく。ケータイ小説を「ポエミィだ」と感じる理由はそこにある。だからそれは、時にビジネスマン向け記事で揶揄されるような世界へと近づいてもいく。しかし、ケータイ小説を「何も語っていない言葉」のカタマリとして見ることは、私はしない。

 たしかに、素人女性の書くケータイ小説の文章のかなり多くは、「何かを語っているようで何も語っていない抽象的な言葉」である。「ヤクザを好きになっちゃった……」ということを表現するためだけに何十行もポエミィな文章が並んでいる、そんな作品が、サイトを少し漁れば1000作くらい網にかかるだろう。

 でも、繰り返しになるが「それでいい」のだ。彼女たちが「何かを語っているようで何も語っていない抽象的な言葉」で表現しているのは、「これは私の、そしてあなたのための物語である」「この世界に、私たちを脅かすものはない」というメッセージだ。そして多くのユーザーもまた、それを探している。

……むかしむかしあるところに、良いおじいさんが住んでおりました。そしておじいさんの家の隣には悪いおじいさんが住んでいました」

 幼児のころ、私はこういった物語の出だしを、なんの疑問も脅威も感じずに聞いていた。これが「1894年、愛知県東三河北部に、松野昭三(83)という男性が住んでいました」というはじまりだったら、はたして母の言葉を最後まで聞けていたかどうか。いつかどこかにいたおじいさん、という単純なとらえ方で大丈夫だと示されていたからこそ、私はその物語を安心して楽しめたのだと思う。私から見ると、ケータイ小説が提供しているのも、そういった安全なのだ。

 では、その「安全」の上に、ケータイ小説はどんなストーリーを紡ぐのか。どんなストーリーであれば、その物語はケータイ小説としての要件を満たすのか。それを次回は考える。

※1 念のため書いておくが、「全て」の作品がそうというわけではない。あくまで全体的な傾向としての話である。

※2 いずれまた語るつもりなので今回は省略したが、これには少数の例外がある。代表的なのが車種だ。物語のヒーローとして暴走族やヤクザが配置されている場合、彼らが乗り回している車についてだけはしっかり「ベンツ」や「メルセデス」と書かれることが多い。ベンツやメルセデスといった名詞が、記号として有用であることの表れだろう。

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