
(c)小池未樹
「ケータイ小説らしい」物語とは?
ケータイ小説という、特異なジャンルを成り立たせている条件とは何か。それをまずは突き止めるべく、ここまでの二回分を使って、ケータイ小説の「スタイル」に目を向けてきた。
・女性を惹き付ける、「ケータイ小説」体裁の秘密——伝統芸の「ポエム」の向こう側
・ケータイ小説のポエムは、「あなたの物語」という安全な世界を創造する
ケータイ小説の体裁に関して言えば、その特徴は徹頭徹尾「安全第一」なことにある、というのが私の考えである。少女たちの共感をはじくおそれのある要素を極力除去し、なるべく平易で抽象的、かつ感情的な文章をメインにして初めて、ケータイ小説はそこに出現するのだ。まるで警戒心の強い小動物のように、そっと。
じゃあ「安全第一」な小説に現れるのはいったいどんな物語で「あるべき」か。ケータイ小説的体裁で書かれたからといって、どんな筋書きであっても「安全第一」であればケータイ小説になるかといったらそうではないだろう。たとえば、『スターウォーズ』や『七人の侍』のようなストーリーをケータイ小説の文体で展開したとしても、やっぱりそれは「ケータイ小説らしい」物語にはなりそうもない。ケータイ小説特有のストーリー運びというものが、何かしらあるはずなのだ。
今のケータイ小説は、「溺愛」がなくては始まらない
「ケータイ小説らしい」物語のことならもうわかっている、と思う人も多いかもしれない。
ケータイ小説と聞けば、多くの人がまずは「女子高生がやたらめったら不幸な目にあう話」とイメージするはずだ。ケータイ小説を読んだことがなくても、一定以上の年齢であれば、『Deep Love』のヒロインが援助交際をしていたことや、『恋空』のヒロインが在学中にレイプされたり妊娠したりしていたことは、ぼんやり情報として知っている場合が多い。(主に性にまつわる)センセーショナルなキーワードをその身にちりばめた彼女たちは、「ケータイ小説のテンプレ」へのイメージをかなり強固に固定化させている。
しかし、このイメージはいい加減、更新されなければならない。以前にこの記事でも書いたのだが、現在のケータイ小説は、「レイプ、妊娠、不治の病」といった調子のものでないことがほとんどなのだから。
じゃあどんな調子の作品が多いのか。私がもっとも重要なキーワードだと思っているのは「溺愛(支配)」である。現在のケータイ小説市場において支持を集めやすい作品は、なんといっても「ヒロインがヒーローに溺愛される話」だ。最初から溺愛されるか、最終的に溺愛されるかは作品によるのだが、とにかくこれがないと始まらないし終わらない。
溺愛作品の中にも類型がある。私がこの3、4年、あまりにも見すぎて目にタコができそうになったのは以下の3つだ。
1 暴走族の総長、ヤクザの組長などの「闇世界」の権力者男性に突如みそめられ、問答無用で溺愛される
2 性格最悪のクズ男(幼馴染やただのクラスメイトや職場の上司などヒロインとの関係性は多様)に歪んだ執着をされるが、それは本当はもちろん愛だったため、愛を確かめ合ったあとはひたすら溺愛される
3 イケメンがたくさんいる空間(主に暴走族、生徒会)に紅一点として所属することになり、全員から溺愛される(これは1を兼ねることが多い)
溺愛というと、頭の古い私は子ども相手の時のような「おーよしよしいい子だね〜(なでなで)」系のアクションしか思い浮かべられない。が、ケータイ小説で描かれる溺愛というのは「猫っかわいがり」とは少し違う。それは私なりにまとめれば、「安全な居場所を提供され、生活の全てを保障され、ふりかかる全ての脅威を振り払われ、心身ともに独占される」ことだ。これはほとんど「親に守られている幼児」であり、愛されているとともに「支配されている」ということでもあるのだが、これの是非については一旦置いておこう。ちなみに、比較的純愛・青春路線の「野いちご」は、「魔法のiらんど」に比べれば「溺愛」ぶりも「支配」ぶりも全体的にマイルドである。
リアリティ不要の世界だから描けるもの
こうした溺愛志向というのは、ケータイ小説だけでなくコバルト小説などの少女小説、乙女ゲーム、少女漫画など女性向けコンテンツ全体に近年強く見られる傾向だ。逆ハーレムものも昔から存在するし、ケータイ小説独自の傾向とは言いづらい。ただ私は、やはりケータイ小説における溺愛は何か独特だと感じている。
たとえば、さきほど「溺愛の類型」としてあげたうちの1番。これは、ケータイ小説界の「王道中の王道」(2017年現在、若干古くなりつつある気配があるのだが……)。感想欄に「最初はよくある話だと思いましたが面白いです」といった感想がよく並ぶくらいの大手ジャンルである。
ここで私は、しばしば発生しがちな「ヒーローとヒロインの権力の非対称性」に注目してしまう。
ヒーローに溺愛されるヒロインは、「ヒーロー以外に頼る相手が一人もいない」という設定であることが少なくない。いじめられているとか、親に捨てられたとかいった設定が頻出である。孤立しているヒロインは、容姿と心がいくら美しくとも、社会的には「無力」な存在でしかない(※1)。
一方のヒーローは、アウトロー属性ながら財閥の御曹司であったり有名企業の経営者をつとめていたりと、一般社会で通用するタイプの権力も「表の顔」として十分に持っており、当然のように美形で、加えて性格も支配者気質である場合が珍しくない。ヒロインと反対に、「力」を持ちまくっている。
もちろん少女漫画やゲームにも、こうしたキャラの組み合わせの作品は多数ある。というか、ディズニー版の『白雪姫』や『シンデレラ』が描いてきた、典型的な「お姫様」ものの構造である。
ただこの例こそが示しているように、今権力的に非対称なカップリングを描くのであれば、「ファンタジー」の設定が必要になってくる。舞台は中近世ヨーロッパ風の異世界、ヒーローは王子様、ヒロインは捨て子ただし元貴族の令嬢、という具合だ。ケータイ小説のように、現代日本設定で、つまり読み手がいる場所と同じ世界観で、「権力者による溺愛(支配)」を描くのは至難のワザではなかろうか。しかしケータイ小説は、それをやってのけてしまうのである。
一般の少女小説や少女漫画は、あくまでケータイ小説に比べればだが多くのリアリティを——理論だった状況説明を求められる。したがって、「親に捨てられた女子高生がホームレス寸前に」「高校生の男子が暴走族の総長で、その総長は実はこの街の実質的支配者で」といったような、極端な設定は作りづらい。「いや、18際未満ならまず児童養護施設でしょ」とか「いやいやさすがに高校生で街の支配者はないわ」とかいったツッコミが、一般小説や漫画ではどうしても発生してしまう。読者がつっこむというよりは、世界そのものが「矛盾」や「説明不足」を醸し出してしまうのだ。でも、ケータイ小説にはそういう現象が起きづらい。こういったところに、とことん具体性のある描写を削ることが可能なケータイ小説の、ある種の強みが発揮されるのである。
脅威を排除し、リアリティを不要とした世界の「愛」がしばしば溺愛、支配という形で現れることを、私は常々興味深く思っている。「もう怖いものはないよ」と声をかけられ、安心した少女たちが次に手を伸ばすものは一体何なのか、ここから読み解くことができるだろうか。
……急いで安易な結論を出すことは避けたい。「ケータイ小説らしい」物語とは何なのかという問いにも、まだ答えを出し終わっていない。次号では一旦、ブームだった頃のケータイ小説の構成要素をもう一度振り返り、現在のそれと比べてみたい。何が残され、何がどこに消えていったのだろうか?
※1 金持ちの令嬢で、親兄弟もみな権力者で、文武両道で、華奢な美少女なのにケンカをすれば大の男もぶっとばせる、という「チート」設定のヒロインが無双する物語もある。ただ、「無力」ヒロインの物語に比べるとヒット作が出にくい印象を受ける。「共感」して楽しむ物語ではないからだろうか。