連載

ケータイ小説「七つの大罪」はどこへ消えたのか

【この記事のキーワード】

 実はそうとも言えないのである。

 10月の「魔法のiらんど」新刊、愛咲メルさん(個人的に、非常に注目している作家さんだ)による『猛獣彼女』のあらすじを見てほしい。

>エマは高校2年生。小さな頃にママに捨てられ、叔母夫婦に引き取られた。叔父から虐待を受けているエマは、その記憶を上書きしたくて、援交なんてしちゃってる。ある日、痴漢に遭ったエマを助けてくれたのは、暴走族・紅蓮の翔ちゃん。エマが体でお礼をしようとすると、「自分を大切にしろ」と太陽みたいな笑顔でたしなめてくれた。すっかり心を奪われてしまったエマは、翔ちゃんにグイグイ迫るけど、純情ヤンキーの彼はなかなか振り向いてくれなくて…。

 ポップな文章で、えらいことが書いてある。虐待・援交・体でお礼。これはどう見ても、「七つの大罪」の世界観に近いキーワードではないか。しかも本文を読むと、『DeepLove』と同じように、ヒロインが援助交際をしているところから始まる。

 ところが、「カラダはビッチ心はピュアな女子高生と、恥ずかしがり屋な不良くんの甘ラブストーリー」というキャッチコピーの通り、これはあくまで「激甘」ものなのである。『DeepLove』や『赤い糸』にあったような悲惨な雰囲気はまるでない。当然ながら読み手も、ヒロインがヒーローにたっぷり愛されることを、そしてハッピーエンドを確信して読むことができる。

 ケータイ小説を読み慣れていない人は、このノリに戸惑いを感じるかもしれない。だが実はこのように、今のケータイ小説に求められる甘さ・ハッピーさを確保しつつも、そこに親からの虐待や売春、壮絶ないじめといった「エグめ」の設定をどっさり詰め込んでいる作品は多い。「ドラッグ」や「不治の病」といった一部の例外は排除されたが(これらは、あまりに未来に禍根を残しすぎるからだろう)、あとの「罪」に関しては、『猛獣彼女』の例でも明らかなようにしっかり残っているのだ。

 ここまでの話をまとめよう。

 2003年〜2008年のケータイ小説ブーム期の作品には、本田透が「七つの大罪」と名付けたような、ある種の悲惨な展開がよく登場した。それはヒロインを徹底的に追い詰め、苦しめていく材料であるとともに、そのあとに訪れる「真実の愛」の価値を高める効果も担っている。それ故に物語は「悲劇」の色をおびがちだったが、読者がこの「悲劇」を求めていたことは、当時のヒット作の爆発的な売れ方を見てもある程度推測できる。

 一方、ブーム以降のケータイ小説が重視しているのは「甘さ」である。そのために、ドラッグやヒーローの死など、「溺愛」を明らかに妨げる要素は排除されるようになっていった。ところがこれは、「七つの大罪」自体の消滅を意味するわけではない。「甘さ」を保証する物語にも、売春や虐待といったキーワードはしばしば見ることができるのである。

 ケータイ小説から、死別などの本格的な「悲劇」は駆逐された。

 しかし、「大罪」は残った。

 ここに、ブーム期のケータイ小説と、ブーム以降のケータイ小説の接続点がありそうである。ケータイ小説が、いくつかの「罪」を「あるある」設定として残すことによって、守った「ケータイ小説らしさ」とは何か。

 それは、「彼女たちにとっての不幸(罪)」ではなく、「彼女たちの求める幸福(報い)」から見えてくる。(続く)

※1 当時のケータイ小説の書籍化は、さほどハイペースで行われてはいなかった。今のように文庫で毎月新刊が出るという形ではなく、サイトに飛び抜けた人気作があれば随時単行本で出版する、という状態だったためである。

※2 本田氏は、「真実の愛」を「罪」にカウントした主旨についてこう語っている。「この『真実の愛』とは、キリスト教的な信仰なのだろうか? もちろんそうではない。ケータイ小説のヒロインは、無宗教である。無宗教なのに、困った時だけ神や天使の名を口にして、祈る。日本人にとっては普通の光景でも、おそらくキリスト教圏の人間にとってはこれもまた『罪』だろう」(P17)。ブーム期のケータイ小説では、ヒロインによる「神様」や「天使」への祈りの言葉、愛の宣言が頻出だったことから、「浅はかな愛の宣言=罪」と位置付けたようである。

1 2 3 4

「いいね!」「フォロー」をクリックすると、SNSのタイムラインで最新記事が確認できます。