ーー『助け合いたい』では、登場人物がすでに厳しい状況下にありながら、周囲と自分とを比べて「もっと大変な介護してるお友だちもいる」と自分に言い聞かせます。自分はまだマシ、と思い込むことで自身の状況が深刻であることに気づかなくなるケースもあるのではないでしょうか?
さいき「バイアスがかかっているんでしょうね、自分は大丈夫という思い込み。災害に遭ったときにすぐに逃げようとしない”正常化バイアス”と同じことが起きているように見えます」
大和「私の場合は、ホームレスになっているわけじゃないし……と思って自分が追い詰められていることにまったく気づかずにいた時期がありました。実際は住む場所を失うギリギリのところにいたのに。そんな思い込みがあったから、生活保護という発想にはなりませんでしたね」
さいき「自分が追い詰められている現実を直視すると、もう逃げ場はない、最悪の事態に向かって転がっていくしかないと思ってしまうんでしょうね。正気を保つために現実を見ないようにする人は多いのではないでしょうか」
違い探しは、差別につながる
大和「『助け合いたい』では、貧困状態にあるシングルマザーが『困窮しているのは人として何かが欠けてるからだと世間は思ってる』という台詞がありましたね。自分と違って何か欠如しているところがあるからこの人は貧困になったんだ、自分はそうでないから大丈夫と思わないと怖くてやっていられないのかもしれません。私の“100kg”も、人として欠けている何かだと受け取られたんですね」
ーー違いを探すことが、差別につながることもあるように思います。さいきさんはかつて「貧困は“けがれ”のようなものだとみなされている」とお話されていましたが、これはいまでも変わらないのでしょうか?
さいき「そうした差別意識というのは、なくならないものですね。だから、私は小田原市役所の“HOGO NAMENNA”ジャンパーの一件がローカルニュースにとどまらず全国的な問題になったのを、意外に思ったほどです。あの問題は生活保護行政に携わる職員さえもが、生活保護の利用者に差別感情を抱いていることをあぶり出しました。一般の人ならなおのこと、差別感情をナチュラルに抱いていると思います。実際には、個人の努力ではどうしようもならないところで貧困状態を強いられている人が多いにもかかわらず。ただ私も、自分自身を掘り下げていくと、そうした差別的な感情がないわけではないと気づきました。かつて“大阪二児置き去り死事件”がありましたが……」
議論できない未成熟な社会
ーーシングルマザーの女性が2人の実子を餓死させた、2010年の事件ですね。女性が性風俗店で働いていたこと、家には不在で子どもをネグレクトしながら自分は外で遊興していたことが激しくバッシングされました。
さいき「最初に事件を知ったときに、私は『同じ状況に置かれれば、自分も同じことをするかも』とは思えなかったんですよね。いくらなんでも子どもを閉じ込めて餓死させるなんてことはしない、と。その後、事件に関する本などを読んでよくよく想像し、ようやく『私だってもしかしたら』と思えてきました。自分自身のなかにも差別意識や偏見があるんだっていうことを私たちはもっと知っておく必要があります」
大和「貧困だけでなく、日本には人種差別も男女差別もないと主張する人が少なからずいます。差別があることを認識して、そのうえで議論しようというところまで社会が成熟してないんだと思います」
さいき「そうした差別意識は、“理想の貧困像”を求める社会にもつながります。これは朝日新聞の記事で採り上げられていた現象ですが、貧困の人はいつも暗い顔で、申し訳なさそうにして息をひそめて暮らしていなければならないというプレッシャーがありますよね」