
(c)小池未樹
前回は、昔のケータイ小説と今のケータイ小説を見比べて、変化した部分と変化していない部分、両方について考えてみた。その結果、全体のテイストは「切ない」から「激甘」へと変化を遂げたものの、かつてのケータイ小説ヒット作によく見られた展開――小説家・評論家の本田透が「七つの大罪」と呼んだようなセンセーショナルな要素は、現在のケータイ小説にも頻出であることがわかった(※1)。
しかしどうしてだろう? 夢物語を志向するのであれば、不穏な要素はすべて排除してしまってもいいではないか。実際、コバルト文庫などの少女小説レーベル(全年齢向け)の作品には、レイプだ売春だといった展開はまず出てこない。しかし、ケータイ小説からそれは失われる気配がないのだ。もちろん、全ての作品に出てくるわけではないのだが、ただ少なくとも、ジャンル全体が「それは『あるある』だ」という雰囲気を持っているのはたしかである。
ここに、ケータイ小説を他の少女小説と区別し、ケータイ小説そのものたらしめる重要なポイントがありそうである。ケータイ小説は、「罪」の存在を許すことによって、何を成し遂げているのだろうか。それを今回は考えたい。
それは「罪」ではなく「罰」ではないか
ところで前提から覆すようでなんだが、私はケータイ小説で描かれる「不幸イベント」の数々のことを、「罪」ではなくどちらかというと「罰」だと考えている。
本田透は、「売春」「レイプ」「妊娠」「薬物」「不治の病」「自殺」「真実の愛」などの「不幸イベント」の、その主体が誰であるかを問わず「罪」とカウントしているが、私はどうもそれに感覚的に馴染めない。私の中でそれらは、「ヒロインの『罪の意識』とともにある罰」なのである。
それはなぜか?
ケータイ小説のヒロインにはしばしば、「私は汚れている」という自意識があるからだ。汚れとは、つまり罪の意識にほかならない。「罪をかぶる」「刑期を終えてきれいな体になる」なんて表現があるように、罪とは「綺麗さ」の反対にある、べったりした何かとしてイメージされる。そして「罪の意識」に呼応した苦難、それは「罰」ではないだろうか。
この「罪の意識」の根拠は、「好きでもない男とのセックス(売春・レイプ)」である場合がどうしても目立つ。『DeepLove』(2003)のヒロイン・アユは援助交際の中で何度も「汚さ」を感じているし、『溺愛』(2015)のヒロイン・ゆりかはレイプを経て、自分を「穢された」「汚い私」と表現している。ある種の性行為を経た体を「汚れ」としてひきうけなければならないという意識は、おそらく現代の女性の中でも根強い。個人的には、こうした「汚れ」意識自体にいろいろ思うところがあるが、別の話になるので今回は置いておく。
あるいは、望まぬ性行為のような経験はなく、しかし「罰」のみ引き受けるようなメンタリティが描かれることもある。そういうヒロインはとにかく自己肯定感が低い。自分に価値を見出していないので(美人だろうが令嬢だろうが)、「こんな自分」に何が起きてもしょうがない、という諦念に生きている。
どちらのパターンにおいても、「自分は大切にされる価値のない人間だ」という認識は共通である。「私は汚い(罪深い)/価値がない、だからどんな目(罰)にあってもしょうがない」というなげやりな気持ちが、ケータイ小説ではよく描かれる。そのなげやり感に応えるように、世界はヒロインに苦難を――「罰」を与える。罪が先なのか罰が先なのか、ここはもう鶏と卵状態だが、ともあれヒロインはその「罰」に甘んじるのである。「こんな目に遭うのは私が無価値だからだ」と思いながら。
そして、そんな彼女に救いを与えてくれるもの、「自分には価値があった」と思わせてくれるもの、それは当然ヒーローからの絶対的な愛だ。それがあって初めて、ヒロインは自己肯定感を回復できる。
「脅かされる性」を描けるケータイ小説
と、ここまでの主張は、「自己肯定感の低いヒロインが、ヒーローの愛によって自己肯定に至る」という内容であり、「よくある話」である。そもそも、少女マンガなどはほとんどがこの構造を持っていると言ってもいい。ヒロインが恋をする、そしてヒーローは彼を愛する。少女漫画にも、ティーンズラブにも、ハーレクインにも、ケータイ小説にも通じる基本である。
しかし、ケータイ小説にはやはり独特な点があると思う。というのも、同じ若年女性向け、つまり少女向け読み物でありながら、少女漫画では基本的に書くことのできない「脅かされる性」をケータイ小説は描くことができるからである。
「ヒーローに押し倒されてキャッ」とか「ヤケになって思わず好きでもない男と寝ようとしてしまったがすんででジャマが入る」どころの演出ではない。自分の居場所を確保するための売春、権力者男性からのレイプ、セフレとの虚しいセックス。ヒロインが「自分は汚れている」と決定的に思い込んでしまうような展開を少女漫画は基本的に避けるが、ケータイ小説は避けない。
セックスの領域まで踏み込んだ「自分を大切にできていない・されていない→自己肯定感がダダ下がる」状況を、ケータイ小説の世界でならサクサクと描くことができる。そして、そこに踏み込んだ作品が熱狂的支持を集めている様子を、私は長年観察してきた。
私も高校生の頃などは、ケータイ小説に反感を持っていたので、「エロい要素を入れときゃ子どもが釣れるんだから楽なもんだ」くらいに思っていたと思う。
しかしその後、たくさんの作品とそのレビューを見るなかでわかってきたのは、読者が求めているのは単なる性描写ではない、ということだった。そりゃそうだ。ただエロが強いというだけならケータイ小説サイトはエロ小説サイトになっていたはずだし(エロ主体のケータイ小説もある)、書き手も読み手も、DMMとPixivの18禁タグに全員吸収されて終了だったはずである。
そうならなかったのは、これまでに書かれたケータイ小説の中で支持を集め、次世代の書き手を生み出してきたのが、「エロ小説」ではなかったからだと思う。そこで描かれているのは、いくらセンセーショナルに見えようと「エロ」というよりはヒロインの「脅かされる性」であり、それに付随する「罪と罰」の意識のループ(それは多くの場合「虚無」として表現されるのだが)であり、それを断ち切り回復させるヒーローの姿だったのだ。
もちろんこれは、「全てのケータイ小説にそういうシーンが出てくる」という意味ではないし、だからケータイ小説は素晴らしい、という意味でもない。「描こうと思えば、それをいつでも、どれだけ過激にでも(ただし読者に「共感不可能」という脅威を与えない範囲で)描ける世界である」、ということが重要なのだ。
少女が、一度は「汚れた」「無価値だ」と思った心身を肯定され、愛情を持って抱かれ、「俺の愛する女」という価値まで与えられる。
そういう種類の「救済」を、堂々と描ける「少女向け」コンテンツは他にほぼない(※2)。
なぜなら普通の「少女向け」コンテンツにおいて、少女に許されたセックスは「世界一好きな人と、適切なタイミングで行う“清らかな”セックス」だけだからだ。『りぼん』や『別冊マーガレット』でレイプは描けない。だから『神風怪盗ジャンヌ』のレイプは未遂に終わったし、ヒロイン・まろんは稚空とセックスしたあとも、ジャンヌに変身できるという事実をもって「純潔」の時と変わらない魂を示したのである。
こうした作法から、「“清らかな”セックス以外はタブー」「少女は“汚れ”てはいけない」というコードを受け取るのは簡単であろう。そこに閉塞感を抱くかどうかは人によるが、そこで描かれないたぐいの「救済」を求めていた女性が、ケータイ小説に群がり癒されるのは至極当然のことに思える。
『DeepLove』のアユはエイズで死ぬが、心優しい「おばあちゃん」の愛情に触れたこと、最愛の人のために生きる時間を持てたということ自体がひとつの救いとして演出されている。『天使がくれたもの』や『恋空』の場合はヒーローが死ぬものの、やはり彼と愛し合ったという思い出が彼女たちを支える。『赤い糸』の場合は結婚する。2000年代末から爆発的に流行った「不良ラブ」は、不遇だったヒロインが暴走族の総長に溺愛され、過去の傷を癒やすのが定番のルートだ。こうした、ヒロインにとっての何らかの救いがなければ、ケータイ小説がこれだけ支持されることはなかったはずだ。
ケータイ小説をケータイ小説たらしめる思想の根幹
ケータイ小説は、「罪」の存在を許すことによって、何を成し遂げているのか。
その答えはもう出た。「罪と罰」の意識を持ったヒロインに対する救済を可能にしているのである。
これは当然、ケータイ小説から「大罪」が消滅しなかった理由とも等しい。
「大罪」を排除した世界とは、結局のところ既存の少女マンガや、少女小説レーベルと同じ、「汚された少女のいない」世界である。そしてそこでは誰も、「汚れちまった悲しみ」が昇華できない。性的な領域まで脅かされ自罰的な虚無を抱えている、そういうヒロインさえも存在できるからこそ(そういうヒロイン以外もいることは前提だ)、ケータイ小説の世界は独自に生き延びたのだと思う。そこで解放したい、なんらかのモヤモヤを抱えた女性たちに支えられて。
本田透は、ケータイ小説に「レイプや妊娠や不治の病といった不幸イベントを耐え忍んだ結果、『真実の愛』を見つければ全ての不幸なイベントがキャンセルされ、『幸福』になるという信仰」を見出している。言葉としては近いのだが、私の考えとはちょっとニュアンスが違う。私が同じようなことを言うのなら、「いくら『汚れ』ようとも、『真実の愛』を見つければ救われるという希望」になるだろうか。言葉にすると大した内容ではないのだが、『DeepLove』の時代から変わらない、ケータイ小説をケータイ小説たらしめる思想の根幹は、ここにあると私は思うのである。
そして加えて書いておくと、私はこの「いくら『汚れ』ようとも、『真実の愛』を見つければ救われるという希望」に、大きな危うさも感じている。なぜなら、そもそも「汚れ」とは何か、「真実の愛」とは何か、汚れを祓う「救い」とは何かという辺りをつぶさに見ていくと、既存の少女向けコンテンツをしのぐほどの閉塞的な価値観も同時に見えてくるからである。というわけで、そのあたりの話はまた次回。
※1 『なぜケータイ小説は売れるのか』(2008)で、小説家・評論家の本田透が提唱した概念。ケータイ小説のヒット作にありがちなセンセーショナルな要素を、「売春」「レイプ」「妊娠」「薬物」「不治の病」「自殺」「真実の愛」の七つにまとめて「大罪」と呼んだ。なおこうした要素は、純愛路線の「野いちご」よりも、過激展開どんとこいの「魔法のiらんど」により多く登場する。なお、「魔法のiらんど」の会員数は200万人、「野いちご」は73万人(2016年)。「魔法のiらんど」の方が、支持層が厚いことが想像できる。
※2 「ほぼ」と書いたのは、ここに「BL」と「二次創作」を並べることが可能だからである。ただ、この二つのジャンルにおいては、「脅かされる性」というテーマが極めてねじれた形で表れる。ケータイ小説の話と並行して進めると大変なことになるので本稿では触れない。