資生堂のWEBサイト「花椿」で毎週木曜日に連載されている漫画「ダルちゃん」(はるな檸檬)が話題になっています。
24歳の派遣社員・丸山成美は、人間に擬態して生きていますが、実はダルダル星人のダル山ダル美というのが正体です。ダルちゃんは毎日、なんとか人様の前に出てもよい人間の女になるよう、シャワーを浴び、メイクをして、ストッキングとハイヒールを履いて仕事に向かいます。ダルちゃんの“擬態”が他人ごととは思えない女性は多いのではないでしょうか。
ダルちゃんは、人間の世界に合わせようと必死で暮らすうちに、擬態がうまくなりすぎました。ゴミの片づけやコピー、お茶くみなどをこなしていくうちに、会社に居場所を得たような気にもなっていきます。そんな中、職場の飲み会で同僚のスギタに絡まれ、それも擬態のうちと周囲のやり方を見て笑ってやりすごしていたダルちゃんは、経理のサトウさんから呼び出され「あなたはね、あいつ(スギタ)のマスターベーションに笑顔で付き合わされたの」「簡単につけこまれて人生を支配されちゃうよ」と注意を受けます。
なぜサトウさんにそんなことを言われなくてはいけないのだろう、と戸惑うダルちゃんですが、次第にサトウさんこそ間違っていると考えるようになり、誘われるままスギタとふたりで飲みにいきます。スギタに認められたと思ったダルちゃんは、サトウさんに対して、女として“勝った”と思うのです。
こうした描写に対しては賛否両論がありました。男性目線を内面化しすぎたダルちゃんに嫌悪感を持つ人もいれば、ダルちゃんの行動に嫌悪感を抱きながらも、「自分にもダルちゃんのように擬態してやり過ごしてきた経験がある」「ダルちゃんは私だ」と思う人もいたようでした。反対に「サトウさんこそ私だ」と思った人も、「ダルちゃんもサトウさんも私だ」と思った人もいたでしょう。
私自身も、派遣社員として働いていたこともあり、擬態してやりすごせている人が自分よりうまく会社になじめているように見えて、そうできたらどんなに楽だろうかという気分になったこともあります。だからスギタのことは憎めても、ダルちゃんを嫌いになったり、漫画に嫌悪感を持ったりという気分にはなれませんでした。
近年は、社会の抑圧が存在することや、そこに過剰に内面化してしまう女性や、その抑圧をはねのけようとする女性を描いた作品がたくさんあり、そのたびに物議を醸してきました。
そのとき、誰がどう抑圧しているかという設定次第で、読者は安心して見られることもあるし、違和感を覚えたりすることもあるのだということを、「ダルちゃん」を読んだことで整理することができました。
資生堂インテグレート「カワイイをアップデート」が炎上した理由
2015年に放送されていた資生堂インテグレートのCMを覚えているでしょうか。25歳を迎える女性の誕生日を祝う場面で、友人から「今日からあんたは女の子じゃない」と宣言されるセリフが炎上し、放送中止になりました。実はこのCM、今冷静になって見てみると、「大人の女性になりたいと願う人たちを応援したいという当CMの制作意図が十分に伝わらなかった」という企業側の言い訳も、あながち嘘ではないのかもしれません。
彼女たちは、25歳を迎えたことを「めでたくない」といい、その理由を「ちやほやされないし褒めてもくれない、下にはキラッキラした後輩 週末ごとにアップされる結婚式の写真…」「カワイイという武器はもはやこの手には…ない」と語ります。その後、「カワイイをアップデートできる大人になるか、このままステイか」という二択で、三人が前者を選ぶという結末を迎えます。
インテグレートの女性たちがいう「ちやほやされないし褒めてもくれない」状況は、女性を「若さ」や「見た目」で測る社会の呪いを羅列しているのであって、問題提起として悪くありません。しかし、三人の女性たちは、「カワイイをアップデートすること」で、その呪いをのりきろうとする描写は、これまでと同様、呪いに対する過剰適応のアップデートをしていこうという宣言にもとられてしまうわけです。
おそらく「アップデートする」こと自体は、「大人になる」という意味であって、悪い表現ではなかったようにも感じます。問題は“カワイイ”の解釈でしょう。“カワイイ”は本来、悪い意味の言葉ではありません。しかし「カワイイという武器はもはやこの手には…ない」というセリフがあったために、「“カワイイ”は女性を抑圧する社会に過剰適応をするための武器」と解釈できるようになってしまっていたのです。「大人の女性になりたいと願う人たちを応援したい」という意図で作られたはずのCMが炎上してしまった理由には、描き方やセリフに誤解させる部分が確かにあったと思われます。
誰がそのセリフを吐いているかがキー
最近、『民衆の敵~世の中、おかしくないですか!?~』(フジテレビ)という月9ドラマでもインテグレートのCMと似たような状況が描かれていました。
このドラマ、視聴率は芳しくありませんが、描いていることは至極まっとうで、多様性のある生き方を否定したり、女性の抑圧を助長する意図のない作品だとわかります。もっとも以前も書いたように(『奥様は、取り扱い注意』『監獄のお姫さま』……「フェミニズム的な話は世間に受けない」はウソ)、今クールの作品は、女性の抑圧をはねのける作品が多くみられ、もはやスタンダードになりつつあるのかもしれません。
『民衆の敵』には、前田敦子演じる元グラビアアイドルの小出未亜という議員がいます。小出は、かつて太っていて、ダイエットしていじめられなくなったという過去がありました。そのころの写真を高橋一生演じる藤堂誠という議員に見せたところ「かわいいは正義…(ということですか)」と指摘され、小出は「でもいつまでもかわいくなんかいられないでしょ、だからかわいいに代わる力を手に入れないと」と返します。これこそ、インテグレートのCMが描ききれなかった意図ではないかと思いました。
インテグレートのCMは、「いつまでもかわいくなんかいられない」からこそ、「大人のカワイイをアップデートしよう(=もっと世間の価値観にあわせていこう)」と見られてしまいました。しかし『民衆の敵』では、「いつまでもかわいくなんかいられない」からこそ、「かわいいとは違う力を手に入れ抑圧をはねのけよう」という意味にとれるものになっていました。
25歳を超えた女性に対する表現といえば、去年ドラマ化もされた漫画『東京タラレバ娘』(講談社)にも、「酔って転んで男に抱えて貰うのは25歳までだろ」「もう女の子じゃないんだから」「30代は自分で立ち上がれ」というセリフがありました。インテグレートのCMとさほど変わらないメッセージですが、炎上するどころか「刺さる」というアラサーの読者、視聴者が続出しました。これも考えてみれば、『民衆の敵』と同じく「カワイイに代わる力を持って立ち上がらないといけない」と言っているのであって、単に「抑圧を受け入れて適応しろ」と言っているわけではありません。
ただ、このセリフにモヤモヤしていた人も多くいました。理由は、そのセリフを言ったのが、KEY(坂口健太郎)という25歳のモデルだったこと、KEYがクソ男なのかそうじゃないのか曖昧だったということが大きいのだと思います。
同じセリフを、坂口健太郎演じるKEYではなく、ダルちゃんに出てくるスギタのように、あきらかに女性を抑圧しているとわかる、もっと言えばミソジニーを持った悪役に言わせたら読者は、「悪い人が言っているのだから、これは反発を覚えていいパターンだ」と感じ、この描写・作品は、抑圧をあきらかにして、そこに対して嫌悪感を覚えるためにあるのだなと気づくことができます。
ただ、KEYという存在は、当初はヒロインの倫子を鼓舞する存在なのか、単に嫌な奴なのか、しかもそれを単なるおせっかいで言っているのか、ミソジニーから言っているのかがけっこう謎でした。なまじかっこよくて、ヒロインの倫子ともいい関係になったりするけれど、それが一夜限りの関係なのか、実はそこから本当に良きパートナーになるのかが見えにくく(とはいえ、なんとなくやっぱり王子様であるというのはみんなの間でも自明で)、しかも言っていることも、上から目線だけど、間違ってもいない。決して本当のクソ男ではないという、曖昧な「善」のキャラクターが、抑圧するような、その実、女性に抑圧から解放されてほしいような微妙なセリフを言ってくるからこそ、ある人は「刺さる」といい、ある人は「これはどうなのか」と反論をしたのだと思われます(ただ、KEYは作者自身の目線を投影しているそうなので、そう考えればまた別の見方もできそうなのですが)。
あのKEYが一目でわかるミソジニー持ちのクソ男であれば、こんなに混乱することはなかったのです。なぜなら、クソ男が「もう女の子じゃないんだから」と言ったら、ヒロインは「うるせー知るか」と言い返せるし、もしヒロインが言い返さなくても、読者が「うるせー、お前が言うな!」と読みながら突っ込めるからです。そのとき、「イケメンである」か否かは関係ありません、重要なのはミソジニー男か否かという一点だけなのです。KEYのキャラクターに曖昧なところがあるからこそ、続きが気になって連載を読み続けてしまう人はいたわけだし、最後の最後まで見れば、抑圧を助長する意図だけでこの作品が書かれていたわけではないことも理解できたわけですが。
根っからのクソ男のほうがまだマシ?
ただ、「自分の足で立つ」ということに、男性キャラの助言ではなく、ヒロインたち本人が自分で失敗しながら気づくほうが、すっきりするのではないでしょうか。
そういう意味で『民衆の敵』の小出は、自分でそれに気づいていたし、そして彼女にそんなエピソードを聞かされる藤堂が、彼女に対して偉そうに上から目線で助言をしないところも、よくできていたと思いました。
一方の『ダルちゃん』では、スギタはミソジニー持ちのクソ男であるという明確な意図をもって作者が描いていると思われます。だからこそ、見ている私たちは、「スギタうるせー」とか「スギタは本当にひどい男だ」と感じることができるし、『ダルちゃん』という作品が単なる女性のミソジニーを増幅させたり抑圧するために描かれた作品ではないと、大方の読者には理解されていると思います。
以前とりあげた『伊藤くんAtoE』もまた、クソ男をきちんとミソジニーを持ったクソ男と描くことで、女性が同性に感じていたミソジニーという呪いから解き放たれる様子を描いていました。ダルちゃんもきっと、ハッと自分が抑圧されていることに気づき解放されるのではないかと予想できます(『伊藤くん』でも『ダルちゃん』でもクソ男は、女性が処女であると知ったときの反応が同じなのも興味深いものがあります)。
こう見ていると、フィクションに限って言えば、したり顔で「女の子はかわいいを卒業してしっかり立て!」と鼓舞するキャラクターよりも、まだ根っからのクソ男のほうがマシにも思えてくるほどです。
なぜなら、女の子扱いされるのは25歳までなどと女性に呪いをかけたのも男性社会なのに、その呪いに無関係な顔をして「呪いを解くのはオレの役割だ」と思っているようなキャラクターは、無意識に支配的であると感じるからです。この図式は、女性の活用とか、女性に輝けと言っているくせに、そのメンバーが男性だらけで女性がいないという構図にも似ています。こうした構図にモヤモヤするのは、女性を輝かせるのも活用するのも救うのもそのヒントを与えるのも男性であるというおごりが見えるからなのではないでしょうか。