「同性愛者は有害」に戦略を変えた東京都の敗訴
肝心の裁判ですが、東京都は、OCCURの「同性愛者が泊まるとどんな問題が起きるのか」という問題提起に対してあくまで「男女の問題」としてしか反論してきませんでした。要するに「私たちは同性愛に偏見があるのではなく、青年の家には男女別室ルールがあるので、利用をお断りしているだけですよ」という態度を一貫してきたわけです。
しかし一審判決で負け、高等裁判所での二審になると東京都は戦略を変えてきます。その時に出てきたのが「同性愛という性的指向を、性的自己決定を十分に持たない小学生や青少年に知らせること自体問題である」という主張です。「同性愛者は有害だ」という主張に転換したわけです。さらに「平成二年当時の我が国における同性愛者に関する知識を基準とすると、同性愛者が青年の家を宿泊利用することが、小学生を始めとする青年の家の他の利用者の健全育成に悪影響をおよぼすと判断したことはやむを得なかった」とも言い始めました。
こうした主張に対し、高等裁判所は私たちが使用した「性的指向」という言葉を用いて、こんな判決を下しました。
・同性愛は人間が有する性的指向のひとつであって、性的意識が同性に向かうものであり、異性愛とは、性的意識が異性に向かうものである
・従来同性愛者は社会の偏見の中で孤立を強いられ、自分の性的指向について悩んだり、苦しんだりしてきた
・同性愛者団体メンバーが性行為のなされる具体的な可能性の有無を判断することなく、安易に「同性愛者」と「男女」を同列に扱っている
・嫌がらせは青少年を拒否する理由にはなっても同性愛者を拒否する理由にはならない
・都教育委員会を含む行政当局としては、少数者である同性愛者を視野に入れた、きめの細やかな配慮が必要であり、同性愛者の権利、利益を十分に擁護することが要請されているのであって、無関心であったり、知識がないということは許されない
そして裁判所は、東京都に対しOCCURに対し16万7200円の支払いを命じます。東京都は上告をせず、府中青年の家事件の裁判は終わりました。
カミングアウトした途端に奪われる「自由」の枠を問う
最初にお話したように、事件の発端はOCCURメンバーへのセクシュアル・ハラスメントでした。同じようなハラスメントは現在も日本各地で毎日のように起こっているでしょう。多くの人は、自分の居場所を維持するために、ハラスメントに対する怒りややるせなさを我慢していると思います。自分の怒りを表現するのが難しいという現状は、高裁判決から20年経った今でも変わっていません。
また、当時、OCCURが青年の家で自己紹介したことに対して、「同性愛に理解のない人の前でした、配慮の欠いた行動であり、OCCURは嫌がらせを我慢するべきだった」という意見は根強いものでした。しかしこういう被害者非難こそ、嫌がらせの背景にあるホモフォビアや同性愛者への偏見を明らかにすることを困難にしているものであり、性的マイノリティの問題を人権問題として表に出すことを妨げています。
私は、カミングアウトした側がたたかれることの背後には「カミングアウトしなかったら差別されずに楽しく生きていける」という考え方があるのだと思います。
私たちはリーダー会で自己紹介する前に、同性愛者の団体であることを話すべきか議論しました。当時OOCURは年に3度ほど勉強会の合宿を民間施設で行っていましたし、電話相談も受けていました。そういう積み重ねの中で、公に、一歩ずつカミングアウトしていこう、と考えて、同性愛者の団体であると自己紹介するという結論に至ったのです。
自己紹介をしなければ、問題なく青年の家を利用できたのかもしれません。しかしその自由は、カミングアウトした途端に奪われる「自由」です。そういう意味でこの裁判は、カミングアウトの問題、許容された枠の中で生きることから、その枠自体を問うという、意義のあるものだったのだと思います。
(取材・構成:wezzy編集部)