一人称『おれ』が再デビューしなかった2017年

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 先日、陽が暮れた帰りみちを歩いていて、あらためて思ったことがあった。「自分は小学生ぐらいの頃から、頭の中の一人称が『おれ』じゃなかったことはないな、たぶん」。思春期以降に「おれ」という言葉を会話の中に使ったことは本当に数える程だ。

 「おれ」が酸素に触れると、思ってもない化学反応が起きてしまう。

 中学の頃、「遠藤さんは自分のことをおれというんだ」ということをクラス中に言いふらしたイジワルな同級生がいた。たしか休み時間で、体育の授業前に、先生を呼びに行く話をしてたときだ。とっさに、「おれなんて言ってない」と口走って、さらにバカにされた。そんなもんほっとけばいいんだけど、中学生ぐらいの年代はちょっとしたことが気になって指摘してしまったり、言われた方も恥ずかしかったりするもので、こうして「おれ」は酸素に触れることをやめた。

 高校の頃、「おれって言ってみてよ」と話しかけてきた可愛い同級生もいた。一緒に帰り道を歩いてて、ちょっと浮かれていた放課後。ひとこと、英単語をリピートアフターミーで音読させられるみたいに「おれ」というと、なんと彼女は「あんたは一生、おれとは言えないかもね」と言って、さえない高校生トランス男子に打撃を与えてから話題を変えてしまった。大槻ケンヂの小説『グミ・チョコレート・パイン』の主人公が、たしかこんな目にあっていた。主人公の賢三はさえないボンクラで、日に三度のマスターベーションとアングラ映画で現実逃避してるうちに、初恋相手に「好きとか言ってくれるのかと思ってた」とか言われて、その彼女はどこか行っちゃうんだった。さえないからダメなんじゃない。意気地なしは、さえないよりも重症なのだ。やれやれ。

 で、問題は「おれ」を真空状態に閉じ込めておいて良いのか、それとも酸素に触れさせる方が良いのかだ。たとえば、バクテリアの世界には、酸素がないと生きていけない菌と、酸素がない方がいい菌がある。一人称の世界にも同じようなことがあるのかもしれない。「おれ」を嫌気性培養することは、「おれ」にとって親切なことなのか。それとも、やっぱりどこかで腐敗してしまうようなことなのか。

 「おれ」って言うことがこれからあるのかなぁ、と30歳になった自分は歩きながら考える。あるいは、言うべきなのかなぁ、ということも。「おれ」は笑われるかもしれない。驚かれるかもしれない。「おれ」は、やたら偉そうに響くかもしれない。ひょっとしたらフェミ的でないかもしれない。LGBT検定ならぬフェミ検定に四万円払っても受からない、なんてことがあるかもしれない。ないか。「おれ」が酸素に触れる日が来たら、ドラマティックに「トラウマの克服」みたいな大げさなネーミングがついたりして。それもまた面倒だな。

 トラウマといえば、大人になった自分はいまでも、制服のスカートを着る羽目になる夢を見る。海外に旅行したらトランクからセーラー服だけがポンとでてきて、ベトナム語を駆使しないとほかに服は買えないし、だいいちベトナムのストリートに買い物にいくのにもパジャマしか着るものがない、という窮地にいたる夢もこの前見た。おいおい、ベトナムまで着てきた服はどうしたんだよ。夢なのに手が込んでいて悪質である。だれだよパッキングしたやつは。

 30歳になる頃にはもう少しまともで、勇気があって、「おれ」と言っているんだと思ってたのに、今年も頭蓋骨がゆるんで、「おれ」がこぼれる瞬間はなかった。別に無理して克服しなくたっていいのかもしれない。だけど、夢の中で制服を燃えるゴミに出せる日が来たらいい。そんなわけで今年も暮れになってしまいました。来年も本連載をよろしくお願いします。みなさん、良いお年を。

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