人間から心を引き剥がし、「カラダ」だけの存在にする
想像してみてください。生まれてきた赤ちゃんが生命の危機にひんしている中、性別はわかっているにもかかわらず、性器の形やサイズが「普通」と違っているというだけで、男として「適当」なのか女として「適当」なのか、そんな話をされる親御さんの気持ちを。
自分の性器の他の人との違いに深く苦悩している女の子や女性が、「男でも女でもないモノ珍しい症例」のように、多くの人間に囲まれて興味深げにジロジロ見られるという体験を。
基礎知識でもお話したとおり、DSDsは、その診断だけでも、当事者の方にとってはトラウマ体験にもなりえます。そんな時に、その人の染色体や性自認、性の理想の話(もちろんそれ自体は大切でしょう)ばかりに目を向けられ、何か別の目的のために証明材料のように扱われた時の気持ちを(当事者の大多数は、むしろ切実に女性・男性なのです)。
DSDsのひとつを持つ海外のある女性の次の言葉は、このような非人間的な状況を的確に表しています。
「誰も私の眼を見なかった。「大丈夫?」って言ってくれた人はひとりもいなかった。シーツを取ったら今度は私以外見なくなった。こう思ったの。「この人達のように体から心を引き剥がせたらこれは終わるんだ」って。」
珍しい標本であるかのように撮影された写真は、決まったように当事者の方の眼の部分が黒い帯で隠されていました。プライバシーを守るためという意味合いがあるのでしょう。ですが、眼は隠しても、最も私的な領域であるはずの性器や裸体を撮影するというのは、「プライバシー」の意味としても全く倒錯した話です。北米のある活動家の方は、このような写真で当事者の眼を隠すのは、撮影する側が「一方的に見る側」であり、そのカラダを自分の自由に行使してよい立場であることを示していると、正しく指摘しました。
また、このような写真をDSDsの説明に使うことは、本人が許可したからOKというものではないことも、人権支援団体で昔から指摘されています。そういう写真を見ることで、当事者家族のみなさんは、やはり自分たちは見世物のような扱いを受ける存在なのだと思わせてしまうからです。ですが、そのような全裸の写真や絵を、あまつさえ多様性のひとつとして取り上げるようなことまでありました。
残念ながら私たち人間は、部屋中の壁に様々な蝶の標本をピンで留めて、多様性を謳えてしまう生き物でもあるようです。ですが、そのような本末転倒は、自分の望みと異なる「心」を持つ他者、人間を当たり前の人間として尊重しようという、本来の「多様性」という理念には全く反するものです(もちろん、こういった背景をご存じなく写真や絵を使っている方もいらっしゃるかもしれません。そういう方には、以降絶対に使わないよう、どうかお願い致します)。
当たり前の、心を持つ人間として
DSDsを「男女に分けられない人」と誤解している人には、 「男性か? 女性か? の前に、私はひとりの人間です」という言葉に、「男女を超えた存在」や、男性・女性という枠組みから解放された世界というものを夢見た人もいるでしょう。それは、「インターセックス」を取り扱った小説やコミックでも同じでした。
ですが、1990年代に掲げられたこの言葉の本当の意味は、先に述べたような昔の医療状況に対して発された、「まず当たり前の人間として扱ってください」という切実な訴えでした。もちろん、どのような体の状態であるか、生命の危険性がないかを調べ、患者さんが必要とする治療を行っていくための検査・診断は必要です。現在の日本のDSDs専門医療機関では、検査にしても「珍しい症例」としてではなく、「人間」を絶対に見失わず、患者家族のみなさんを大切にする医療が行われています(僕も、自分の小学生の頃とのあまりの違いに驚いたほどです。ここには、人を「(珍しい)症例」として見たり、身体の一部分に還元するのではない、「全人的医療」へのパラダイムシフトがあるのです)。
しかし、その人個有の心を引き剥がされ、ひとりの人間であることも奪われ、一度「モノ化」されてしまったカラダは、また更に容易に人びとの一方的な望みや欲望のために行使されてしまいがちです。
「男性か? 女性か? の前に、私はひとりの人間です」という言葉は、社会に出た時、その背景は捨て去られ、結局同じように「男でも女でもない」というイメージを投影され、「性別からの解放という物語」に単純化されてしまいました。やはりそこでは、心を剥奪され、モノ化されたカラダが、悪意であれ善意であれフェティシズム的興味であれ、他人の自由に行使され、多くの当事者家族のみなさんの眼や口は塞がれたままということになったのです。これでは、「私はひとりの人間です」という切実な訴えは、むしろ裏切られてしまったと言えるでしょう。
次回からは、ある性心理学者が自分の理論の正当性を証明するために実験材料のようにされた男性の物語、そして、「性別疑惑」という汚名を着せられ、世界中のさらし者にされた女子オリンピック選手のキャスター・セメンヤさんの物語を振り返り、性を、人を大切にするとはどういうことかを更に深く考えていきたいと思います。
(ネクスDSDジャパン ヨ・ヘイル)