タンポン、不遇の歴史(戦前編)「女の神聖なところに男以外の物を入れるとは何事ぞ」

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 この4年後にはある医師が、脱脂綿を用いる女性が増えてきたものの「大抵は膣内に挿入している」ため、「しばらく経って出すことができないで、否でも応でも医者に掛からなければ出すことが出来ぬというような」ことになり、「ほとんど一生医者に掛かっても癒(なお)らぬというくらいな激しい頑固な病気をひきおこすようなことがあります。大変にどうにも恐ろしいのでありまする」と述べている(4)。

 この医師は、そうならないためのお勧めの経血処置用品として、「西洋婦人の用ゆる所の月経帯という物」を紹介し、自分もこれを真似たものを製造販売すると宣言している。そしてその直後、実際に販売を始めている。1901(明治34)年のことである。

 これが日本で最初に商品化された月経帯(初期はベルトに吸収帯をつるすタイプ。その後ズロースタイプなど多様化する)だが、あまり売れなかったようである。値段は日雇い労働者の日当と同じくらいだった。

 以後も、「たとえ消毒せる脱脂綿等を使用するにありてもこれを膣内深く挿入することは厳禁」で、「これがため甚だしきは頑固不治の疾病を起こすの原因となる豈(あに)恐れざるべけんや」(5)、「この膣腔に脱脂綿ないし他の物を詰めて血液の流出を防ぐということは全然やめていだたきたい」(6)といった医師たちの意見が頻繁に見られることから、「詰めもの派」が多かったことがわかる。

 少なくとも、医師たちが「啓蒙」の対象とはしていなかった労働階級の女性たちは、ほとんどが「詰めもの」に頼っていたようだ。

 実際に女工として働いていた女性は、月経のときは布の球を芯にして脱脂綿でくるんだものを膣の奥と手前の二箇所に詰めていた。そんなことをしているのは自分だけだと思っていたら、ある日共同浴場の洗い場の金網に、同じような脱脂綿の球がいくつも転がっていたという(7)。

 この頃は月経中の入浴を禁じる意見が多かったが、女工たちは入浴して清潔を保っていたようだ。医師の意見に接する機会などない女工たちは、経血処置にせよ入浴にせよ、経験にしたがって実際的な方法を選択していたのだろう。

 国産月経帯第1号が発売されたあと、ぽつぽつと月経帯が発売されるようになる。これらの広告文からは、「詰めもの」がよくないとされた別の理由が読み取れる。

 「婦人は股間の美を如何に保つか」というキャッチコピーが目を引く「ゴム製猿股式月経帯」の広告には、「子宮病、生殖器病等」を防ぐほか、「春期発動期の処女方にありては恐るべき自涜を防ぐ」とある。つまり、「詰めもの」をすることは「自涜」を招くと考えられていたのである(8)。

 当時としては珍しかった産婦人科病院を設立し、その後、大阪府医師会の初代会長となった緒方正清の『婦人家庭衛生学』(丸善、1916年)には、「詰めもの」と「手淫」との関連が、はっきりと書かれている。

「女子は月経という生殖器に充血を起こすべき時があるので、この前後には、生殖器の亢奮性が高まり、手淫を行うものであるから、日本風の月経時のたんぽん、日本人の所謂しのび綿、或いはしのび紙なるもの、或いは西洋人の月経帯と名づくるものは注意すべきものである」

 緒方は、月経時には手淫をするものと決めつけている。さらに「たんぽん」「しのび綿」「しのび紙」といった「詰めもの」のほか、月経帯の使用にも注意を促しているが、これは月経帯が丁字帯と比べ、より体に密着するため、そうしたイメージを抱きやすいのだろう。このような見方は、戦後も引き継がれていく(詳しくは次回)。

 同書が出版された大正初期には、「清潔球」「ニシタンポン」といった製品が発売されている。これらは単に脱脂綿を丸めたものであった。

 経血処置を目的として開発されたタンポンの第1号は、1938(昭和13)年に、合資会社桜ヶ丘研究所(現エーザイ株式会社)から発売された「さんぽん」である。桜ヶ丘研究所は、田辺元三郎商店(のち東京田辺製薬。合併により現在、田辺三菱製薬)に在職していた内藤豊次が設立したのだが、「さんぽん」発売と同年、 田辺元三郎商店から「シャンポン」という和紙製のタンポンも発売されている。

 「さんぽん」は脱脂綿を圧縮した砲弾型のタンポンで、20mlの経血が吸収できたという。12個入りで45銭。当時、アンパンが15銭、ビール大瓶1本が41銭だった。

 既製品タンポンの登場は、当然ながら医師たちの猛反発を招いた。東京女子医科大学創設者の吉岡弥生は「女の神聖なところに男以外の物を入れるとは何事ぞ」と批判している。

 また、日中戦争の開始時期と重なったことから、原料不足により製造ができなくなってしまった。中国から綿花が買えなくなった上に、脱脂綿は軍隊の使用が優先されたのである。太平洋戦争が始まった1941年には、国家総動員法に基づいた生活必需物資統制令によって脱脂綿は配給制となった。

 タンポンの製造販売は、始まるや否や戦争によって頓挫してしまったのである。

1)『婦人衛生雑誌』319号、1916
2)同上1号、1888
3)同上88号、1897
4)同上137号、1901
5)同上177号、1904
6)同上246号、1910
7)「女たちのリズム」編集グループ編『女たちのリズム――月経・からだからのメッセージ』講談社文庫、1988
8)『女学世界』190912月号

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