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危険と知っても妊婦が「マタ旅」をしたいのは、それが「最後の晩餐」だからではないか

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問題視すべきは母体や胎児への危険性のみだろうか?

 そもそも男性同士の会話で「子供が産まれる前に思いきり〇〇をやりたい!」といったような内容はあまり聞き馴染みがないし、現に産まれた後だって独身時代同様の生活を送っている男性だって多い。それをしたところで非難の目を向けられないから、なのだろう。

 子供が産まれたら「〇〇ができなくなる」という長期的な制限が女性のみにあてはまる項目と言えば、飲酒(母乳育児の場合、数カ月~数年)ぐらいしか思い浮かばない。産後の回復のためにしばらくは運動など制限されるが、「産んだら自分のための人生は終わり」なんて到底ありえない。

 本来、母乳を与える以外は、五体満足な大人であれば誰だって子の面倒は見れるはずなのだ。夫をはじめ、両親や親戚、友人や行政サービスを使ったっていい。つまり駆け込むようにして「マタ旅」を実行する女性たちの心理をつきつめると、「母親になったらこうなくてはならない」とどのつまり「全てを切り替えなくてはならない」の精神論の塊のようなものが支配しているからなのだと思う。

 「マタ旅」問題をめぐっては母親向けサイト『mamari』に掲載された読者のツイートでこんなコメントがあった。

≪もうさ、欧米みたいに赤ちゃん預けて夫婦で小旅行するのが当たり前になってほしいわ。悪いけどマタ旅が儀式化するよりよっぽどまし。なんで日本では妊婦のときは大切にするのに、いざ子どもと分離したら親には多大なる自己犠牲と忍耐を要求するのかね≫

 私自身も、この読者と全く同じことを感じている。「赤ちゃんを預けて出かける」という母親の行動が当たり前の文化になれば、わざわざ産前にリスクを背負う妊婦も減るかもしれない。

 「子を産んだって、好きなものを食べ、好きな服を着て、自分で預け先を確保できるなら他者に預けて旅行も大いに結構。自分の人生を大いに楽しむのがスタンダードだよ」と言われれば、なにも人生のイベントの一つに過ぎない「出産」を節目にリスクをおかしてまで“はっちゃける”ことはないわけだ。

 私にとって、妊娠中に行った3度の旅行は(今思うと)あまり意味のないものだった。

 それは私が今、好きな物を食べ、好きな酒を飲み、好きな服を着て、たまに「母親像」を押し付けられれば同じ志の友人に愚痴って憂さ晴らし……と、「母親らしさ」の抑圧に従わずに生きるようにしているからだ。

 息子は間違いなく世界で一番大切な存在だが、自分の人生の軸が息子に移行したわけではない。いい意味で、思っていたより「お母さん」にならなかったのだ。

 それに、夫と二人で旅行だって、やろうと思えばできると思う。今年一度だけ夫と二人で近場に外泊をしたが、実際は出先での会話は息子のことばかり。今なにしてるかとか、この間ああしたこうしたとか。今自分たちが食べてる物だったり、見えている景色だったりを息子に与えたら、どんな顔するだろうとか……。

 決して縛られていたわけではなく、その時間が一番幸せで、何よりしっくりくることを知った。それ以来は、息子抜きで外泊をしたいとはあまり思わなくなったのだ。

 本当はしたいのに足枷をはめられているのではなくて、「自分がしたくないから、しない」、つまり自分主体で「選んで」いる。これが一番肝心なのだと思う。

 中には親にも頼れず、行政サービスも行き届いていない環境で、決して「母親像」に縛られているわけではないけれど物理的に「選べない」人だっているだろうから、少なくとも私は恵まれているのだろうが。

 「マタ旅」は危険だとか何だとか、そこのみにスポットを当てて警鐘を鳴らすより、産んでも産まなくても皆が一生「自分」であり続けることを認める社会になっていかなければ、いくら産科医が制止したところで、リスクを背負いながら「最後の晩餐」を楽しもうとする女性は後を絶たないだろう。

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