前回の「戦前編」で書いたように、経血処置を目的とした既製品タンポンの第1号は、1938年に合資会社桜ヶ丘研究所(現エーザイ株式会社)から発売された「さんぽん」だった。しかし同時期に日中戦争が勃発したため、原料不足によって製造中止となってしまった。
経血処置用品の主流だった脱脂綿は軍での使用が優先されたため、陸軍省は商工省に脱脂綿の代用品の開発を依頼した。その結果生まれたのが、紙に特殊なシワ加工を施して水分を吸収しやすくした紙綿(かみわた・しめん)である。しかしそれさえも十分には行き渡らず、女性たちは不自由を強いられた。
戦時下の激しい労働や防空演習にかり出される女たちにとって、両足の間でねじれたり、ずれたりする丁字帯や、じっとりと経血を含んだ再生綿、ぼろの始末は、苦痛以外のなにものでもなかったのです。戦時性無月経(1)に陥った女が、おかげで助かったと思った、とあとになって語っているのは、おそらく実感であったと思います。
戦争中に、膣内に入れて経血を吸収する、いわゆるタンポン式の処置をおぼえた女が多いというのは、物質の徹底的な窮乏と、激しい動きを要求され、便所へ行くのさえままならない不自由な戦時生活のゆえでしょう。(『主婦の友』1938年10月号)
実際、戦時中に「自己流タンポン」に慣れてしまったために、戦後もその習慣を続けた女性は多かったようだ。戦後間もない頃の書籍や雑誌には、明治、大正期の医師たちが唱えていたような「膣挿入弊害説」がたびたび掲載されている。
例えば、1950年に出版された『婦人衛生』(主婦之友社)には、「多く中年婦人に見られる、綿花や紙きれで膣口に栓をする方法は、不潔で細菌感染の原因になりやすいから、絶対にやめねばなりません」とある。
こうした背景もあり、厚生省(当時)は1948年にタンポンを医療用具(現在は「医療機器」)に指定し、厳しい衛生基準を設けた。
最初に承認を受けたのは、「さんぽん」を発売した合資会社桜ヶ丘研究所の後身、エーザイ株式会社である。エーザイは1964年、東京オリンピック開催に合わせて、スティック式タンポン(スティックを使ってタンポンを挿入する)「セロポン」を発売した。同じ頃、アメリカの「タンパックスタンポン」の輸入販売も始まった。
当時の『主婦の友』(1965年7月号)に掲載された「生理用品は何をお使いですか」という記事には、「大部分の人が、今まで受けたしつけ上、あるいは性知識からは、性器にものを入れるのは、とんでもないことだと考えています。そこで、生理用品にしても、いずれも外からパッドをあてる形式ばかりで、膣内に挿入する内装生理用品は、花柳界や婦人病の治療を受けた人以外には、あまり使われませんでした。しかし日本も、すでに普及している欧米の影響を受け、ようやく普及しはじめようとしています。その1つが、アメリカ生まれの『タンパックス』。もう1つが日本生まれの『セロポン』」とある。
多くの女性が「詰めもの」に頼らざるをえなかった戦時から20年を経て、「大部分の人」が「性器にものを入れるのは、とんでもないことだ」と考えるようになっていたようだ。
1968年には「アンネナプキン」を発売したアンネ社が、ドイツのカールハーン社との技術提携により「アンネタンポンo.b.」を発売している。
「アンネタンポンo.b.」の広告は、商品イメージを重視した「アンネナプキン」の広告とは異なり、内容が「あからさま」である。新聞の広告に、「『処女膜はマクではなくヒダです』そうです。膣口からほんの2~3ミリのところにある…それはヒダ。(中略)しかも処女膜は粘液質で、伸長性と耐久性があります」とある。これは、無知による誤解から、便利なタンポンに二の足を踏んでいる女性が多かったためである。
例えば、「アンネタンポンo.b.」発売から5年後の女性誌に、こんな記事が掲載されている。
ナプキン派からタンポン派へ先頃転向した24歳のOLの話。(中略)お正月休みを利用してスキーに行く計画を立てたが、どうしたわけか、周期が早まって突然前日に月経が来てしまった。(中略)会社の同僚に相談した結果、近くのスーパーで(筆者注・タンポンを)購入した。説明文と図を見てもよくわからない。同僚はすでに性体験があり、タンポン挿入に何の不安もなかったというが、彼女は結婚までは処女でいたいと思っていた。処女膜は膣の入口に鼓膜のように張りめぐらされているものだ、と思っていたから、まずその心配があった。それに現物を手にしたとき、不思議でたまらず、恐ろしい感じがした。彼女の理想の結婚をするためには、処女膜が健全でないと、相手にふしだらな女と誤解される。それを考えれば、現在の月経中の悩みなど、耐えるのは当然ではなかろうかと、タンポン使用にあたり迷ってしまった。同僚が笑いながら説明してくれた。(中略)ああ、なるほどという感じで、さほど痛みもなく、入ってからは何の異物感もなかった。スキーで転んでも例の出血の一瞬を感じることもなく、今までにない解放感を感じた。不思議なことに、下腹部の痛さも、下半身のだるさも忘れてしまった。(『婦人公論』1973年8月号)
このように、タンポンの使用によって処女膜が破れ、「お嫁にいけなくなる」と信じている女性たちが大勢いたのである。
当時、医事評論家のドクトル・チエコが「生理に関する常識のウソ」と題した雑誌記事のなかで、「未婚女性はタンポンを使うな」という「常識」に対して、「処女膜はタンポンを使ったりすることや、指でさわる程度では切れない。膣口の周囲に粘膜の細いヒダ飾りになっているのが、処女膜。中央に立派に口もあり、また粘膜なので伸びるから、簡単には傷ついたり、切れたりしない」(『婦人公論』1974年11月号)と説明している。
「簡単には傷ついたり、切れたりしない」ということは、やはり「傷ついたり、切れたり」するのは好ましくないという意識が強かったのだろう。
いずれにしても、処女膜のことを心配する女性たちのために、アンネ社の広告も多少「あからさま」な説明を必要としたのである。
1972年には十條キンバリーもタンポンの輸入販売を開始し、1974年にはチャーム株式会社(現ユニ・チャーム株式会社)が「チャームタンポン」を発売。テレビコマーシャルも行い、積極的なマーケティングを行った。
しかしそれでもなお、明治、大正以来の「膣挿入弊害説」は根強く残っていた。
例えば『性的非行』(汐文社、1978年)には、1970年代に社会問題化した少女売春の原因がタンポンの使用にあるという意見が書かれている。
著者の千田夏光は、知り合いの産婦人科医から「タンポンの弊害」を世に訴えるように言われたという。この産婦人科医の意見として「この方式の生理用品は少女が使うと性器に対する必要以上の関心を抱かせます。使用するたびにまさぐりながら挿入するのだから、未経験の少女が使うのだから処女膜損壊と同様にこれは当然のなりゆきでしょう」「そこそこの自慰をおぼえたりするほか、性衝動にかられる確率がきわめて高くなることも必然的に考えられます」と書かれている。
この意見に対して千田は、「日本女性の生理期間は平均5日ないし6日だという。したがって1日3回とりかえるとして、月にすると15回から18回異物の出し入れをすることになるのだから、確率が高くなる」と補足している。
同書が発売された翌年の『現代性教育研究』(1979年8月号)には、「ある調査によると、タンポンの使用に抵抗をもつ教師は、タンポンを使っている生徒たちを『はみ出し者』とみているようだと報告している」という一文が見られる。性教育を行う教師の側にも、タンポンの使用に対する偏見があったことを伺わせる。
さらに1980年には、アメリカでP&G社製の「Rely(リライ)」というタンポンの使用者に高熱、下痢、吐き気、発疹といったショック症状が現れ、少なくとも数十人の死者が出るといういわゆる「タンポンショック事件」が起きた。
これはTSS(トキシックショックシンドローム)と呼ばれる細菌性ショックであり、原因は、特定の黄色ブドウ球菌が生産した毒素だった。タンポン使用者でなくとも罹患することがあるが、成人の大部分がこの毒素に対して抗体を持っている。
理由は不明だが、白人以外にはTSSの例が少なく、日本人の発症例はきわめて稀だという。タンポンの吸収力とTSS発症率との相関性が判明したため、吸収性の高いレーヨン素材のタンポンの製造を中止したところ、アメリカのTSSの発症数は激減した。
この事件の影響で、日本でもタンポンの評判は下がったものの、当事国アメリカではその後もタンポン使用率は高いままである。ちなみにヨーロッパでは、カトリック信者の多い国ではタンポン使用率が低いという傾向がある。
日本でタンポン市場が勢いづいた時期があるとすれば、複数のメーカーが製造販売を行っていた1970年代から1980年代だろう。その後徐々にメーカーが撤退し、「タンパックスタンポン」の販売は2001年で終了、老舗のエーザイも2003年に製造販売を中止した。
現在、日本でタンポンの製造販売を行っているのは、ユニ・チャームだけである。
戦時中にタンポン式の処置をしていた女性たちが閉経を迎えた時期と、タンポン市場が縮小していった時期が重なるのは、偶然ではないだろう。
日本における既製品タンポンは、登場するや否や原料不足による製造中止という不遇に見舞われ、その後も戦前と変わらない「膣挿入弊害説」に晒され続けた。現在、日本で経血処置をタンポンだけに頼っている女性は1割以下(2)と少ない。
タンポン使用率が低い理由として、「膣挿入弊害説」の影響も多少はあろうが、ナプキンの性能が良いため、タンポンに頼らずとも快適に過ごせるということも大きい。
(1)空襲によるストレスや食料不足によって月経がなくなることで、第一次世界大戦中の1917年に、ヨーロッパで報告されている。
(2)ユニ・チャーム社、マイナビウーマンなど複数の統計より。