私たちは目上の人への抗議の言葉を持たされていない
元TBSジャーナリストからのレイプ被害を告白した伊藤詩織さんは著書『BlackBox』(文藝春秋)の中で、
“それまで「やめて下さい。」と繰り返していただが、それではあまりに弱すぎた。私はとっさに英語で言った。
「What a fuck are you doing!」
日本語に訳すと、「何するつもりなの!」となるかもしれないが、実際はもっと激しい罵倒の言葉だ。
後になって考えたことだが、これから上司になるはずの山口氏に対し、私はそれまで敬語を使っていた。女性が目上の男性に対して使える対等な抗議の言葉は、自然には私の口から出てこなかった。そもそも日本語には存在しなかったのかもしれない。
しかし、私はその時まで、海外で「日本語の汚い罵り言葉を教えてよ」などと冗談交じりに聞かれると、「そういう言葉は日本語にはないの」と答えるのを誇りに思っていたのだ。”
私たちは目上の人には礼儀正しくしなければいけないと教えられる。特に女性はより言葉遣いを限定される。例えば「やめろ!」というのは一般的に”男言葉”だ。では、女性がこれを言う場合どうなるか。「やめて」「やめてください」「やめなさい」どうしてもお願い口調か敬語になりがちだ。
日本語、特に標準語で女性が抗議や怒りを強い言葉で表すことは容易なことではないのかもしれない。ちなみに、私は関西出身なのだが、標準語と比べると関西弁の方が女性でも抗議、怒りの言葉を口にしやすい気がする。もちろん人によるが「何してんねん、こら!」などの強い怒りの言葉が用意されており、標準語と比べると女性も怒りを強い言葉で口にしやすいように思う。
つまりは、女性は元来おしとやかなので強い言葉を使えないのではなく、文化や風潮が女性たちから強い抵抗、抗議の言葉を取り上げているのではないだろうかということだ。
目上の人を敬うこと、きれいな日本語、丁寧な言葉遣い、それらを教えることは素敵なことかもしれない。しかし、本当はそれよりもまず自分の身体や権利を守るための言葉や術を教えることの方が必要なのではないだろうか。そして、なによりそうした言葉や術を使わずに済む社会を目指すことこそが重要だ。
自分にその気がなかったとしても、セクハラ・パワハラがなかったことにはならないし、仕方のないことにもならない。日常の中で、どこまではOKでどこからはアウトなのか、その線引きをするのは難しい。というかおそらくそれを一律に決めることは不可能だ。
しかし、権力を持つ者が自分の持つ力を自覚することで防ぐことのできるセクハラ・パワハラはあるはずだ。
権力をもつ者はその自分の力にもっと敏感に、そして慎重にならなければいけない。「セクハラしているつもりはなかった」「パワハラだとは思っていなかった」は通用しない。それに気がつかないことがすでに罪なのだ。
(もにか)
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