このところ、ハリウッド映画では以前よりもいろいろな人種の役者を起用したり、女性を増やしたりするキャスティングが盛んです。例えば『スター・ウォーズ』新シリーズやマーベル・シネマティック・ユニバースの新作では、女性や非白人の登場人物が増えています。そしてそうした映画が公開されるたびに起こるのが、「ポリコレ」的配役だという感想です。
このような文脈で「ポリコレ」という言葉が使われる場合、おそらくキャスティングする側に何らかの「配慮」が働いているという考えが背後にあることが多いかと思います。つまり、何も「配慮」せずに配役を行った場合、プロデューサーや監督はほぼ全員を白人にし、男性をメインに据え、男女問わず容姿の良い役者で揃えるという想定があるでしょう。そこに「ポリコレ的配慮」を入れることによって黒人やラティーノ、アジア系などの役者が入ったり、女性が大役を担うようになったりする……というのがこの想定かと思います。こうした想定においては、白人男性でない役者を使うことはクリエイター側に課されたある種の制約としてとらえられています。
このような人種や性別に多様性のあるキャスティングを「ポリコレ的配慮」の結果とする考えには、大きな問題がひそんでいます。というのも、よく見ていくと、実は非白人や女性を特定の役柄に配することにクリエイティヴな工夫が潜んでいることも多いからです。よく考えずに「あーあーポリコレね」と流して思考停止してしまうことは、映画の面白さを見逃す原因になります。
そこで今回は、しばしば「ポリコレ的」と言われるような配役には実はどういう芸術的工夫が潜んでいるのか、いくつか作品をとりあげて見ていきたいと思います。新作が多く、ネタバレもあるので未見の方はご用心ください。
『スパイダーマン:ホームカミング』(2017、ネタバレ注意)
スパイダーマンシリーズのリブートである『スパイダーマン:ホームカミング』にはさまざまな人種の登場人物が出てきますが、これは舞台となるクイーンズの現実の人口構成を反映しています。メインキャストの人種を整理すると、以下のようになります。
・スパイダーマンことピーター:トム・ホランド(アイルランド系)
・フラッシュ:トニー・レヴォロリ(グアテマラ系)
・ネッド:ジェイコブ・バタロン(フィリピン系)
・リズ:ローラ・ハリアー(アフリカ系)
・MJ:ゼンデイヤ(アフリカ系)
・ヴァルチャーことトゥームズ:マイケル・キートン(アイルランド系)
2014年の調査では、クイーンズの人口のうち白人とラティーノがそれぞれ3割くらい、アフリカ系とアジア系がそれぞれ2割前後なので、この映画はかなり実情に近いと言えるでしょう。白人人口の中ではイタリア系やアイルランド系が多く、メイおばさん(マリサ・トメイ)やピーター御用達のサンドイッチ屋のおじさんがイタリア系なのも納得です。
この映画で最も興味深いのは、既に英語圏の映画評などで指摘されているとおり、観客の人種に対する思い込みを利用し、プロットに仕掛けを仕込んでいる点です。リズはアフリカ系ですが、バイレイシャル、つまり複数の人種の血を引いています。映画の終盤で、実はこのリズのお父さんがピーターの宿敵である白人男性ヴァルチャーだったとわかります。リズがバイレイシャルなのはなんとなく外見からわかるのですが、観客は肌の色にとらわれてリズを非白人だと思っているので、親のどちらかが白人だなどということは想像しておらず、この展開にすごく驚きます。我々観客は「アフリカ系はアフリカ系同士、白人は白人同士で家庭を作っている」という思い込みを持っているため、ヒロインの父がヒーローの宿敵かもなどということは全く考えないのです。
このキャスティングは、観客の思い込みを利用して驚かせようという、明らかにクリエイティヴな意図に基づいていると思います。「配慮」どころか意図的な芸術的選択です。
『オリエント急行殺人事件』(2017、ネタバレ注意)
アガサ・クリスティ『オリエント急行殺人事件』(1934)はミステリの古典です。2017年にケネス・ブラナー監督主演により映画化されましたが、この映画は小説と登場人物の人種構成が違います。たとえば原作ではイングランド出身で白人と思われるアーバスノット大佐は、アフリカ系アメリカ人のアーバスノット医師(レスリー・オドム・Jr)になっており、さらにイタリア系のアントニオ・フォスカレリはキューバ系のビニアミノ・マルケス(マヌエル・ガルシア=ルルフォ)になっています。
もともと、原作は1930年代のヨーロッパ及びアメリカのさまざまな人々が集まるインターナショナルな場所としてオリエント急行車内を描いています。背景の違う人々がひとつの悲劇を介して結びつくところにこの作品のポイントがあります。ブラナーは国際社会の縮図としてのオリエント急行をアップデートし、現在の感覚で国際的に感じられるものにするため、登場人物の人種を変更したのでしょう。
さらに原作ではラテン系の人物は激しやすいと思われており、寝台車会社重役であるブックがイタリア系のアントニオを疑うという記述がありますが、現在では、カッとなりやすいのは中南米系の人物というのがステレオタイプなので、映画版では、マルケスが人種のせいで警察から無根拠に疑われるのではないかとブックが心配する台詞があります。イタリア系をキューバ系にしたのは、いつの時代も変化しつつ存在する人種差別的ステレオタイプを現代人にわかりやすくするためだと考えられます。
監督のブラナーはもともと舞台出身です。英語圏の舞台、とくにシェイクスピア劇では多様な人種の役者を使ったり、男役を女役に変えたりするのがしばしば行われます。ブラナーはこれに熱心で、舞台だけでなく『から騒ぎ』(1993)や『マイティ・ソー』(2011)、『シンデレラ』(2015)などの映画でも、一番役にあいそうな役者を人種にこだわらず使っています。
ブラナーの配役には別のひねりもあります。たとえば、2017年の夏にブラナーが王立演劇学校でトム・ヒドルストンをハムレット役に据えて上演した『ハムレット』の舞台では、王子の若い友人であるホレイシオ、ローゼンクランツ、ギルデンスターンを全て女性にするという大胆な配役を行ったのです。これによってヒドルストン演じる心優しい王子が女たちとはリラックスして過ごせる一方、男っぽい社会に適応できず苦しむ様子を浮き彫りにしていました。
ブラナーの演出方針にはおそらく複雑な背景があります。イングランド演劇の代表者と目されるブラナーは北アイルランド出身です。シェイクスピア研究者のコートニー・レーマンは、ブラナーが北アイルランド紛争のために北アイルランドの首都ベルファストからイングランドに移住した一家の息子で、アクセント矯正などに努力しつつ役者となったことを引き、ブラナーのキャスティング戦略を本人が受けた民族差別と結びつける分析をしています。ブラナー作品では、役者にとって大事なのは人種ではなく個性や能力で、ゆえにブラナーのような北アイルランド系でもイングランド国王やデンマーク王子を演じられるのです。役者には人種を忘れさせる力があるからこそブラナーはトップスターになったのであり、ブラナー作品はこの理念に基づいて作られています。
『マグニフィセント・セブン』(2016) vs 『ダンケルク』(2017)
『荒野の7人』のリメイクである『マグニフィセント・セブン』は、7人中4人が非白人というラインナップで、リーダーのチザム(デンゼル・ワシントン)はアフリカ系です。この作品の監督、アントワーン・フークアもアフリカ系です。フークアが初めてこの映画を担当すると決まった時、真っ先に思い浮かんだのが「馬に乗ったデンゼル・ワシントンの姿」だったそうです。フークアはよっぽどこのイメージが気に入っていたのか、監督というよりはただの熱烈なファンのような調子でこの話をいろいろな媒体にしています。フークアは既に『トレーニング・デイ』(2001)でワシントンにアカデミー賞をもたらしており、昔からの仕事仲間です。配慮や制約どころか、主役をアフリカ系にするのは監督のクリエイティヴな情熱の結果です。
『マグニフィセント・セブン』は、19世紀アメリカ西部の人種構成を考えると、過去の西部劇よりむしろ歴史的に正確だと言われています。監督のアントワーン・フークアも言っていますが、開拓時代の西部は雑多な人々の集まりで、先住民やメキシコ系、アフリカ系はもちろん、中国を中心とするアジア系の人々も流入していました。古典的西部劇のヒーローは白人が多いので我々観客は勘違いしがちですが、「ポリコレ」に見える配役はけっこうちゃんとした時代考証の結果なのです。
これと対照的にいわゆる「ポリコレ」と呼ばれるものをおそらく一切考えなかった結果、あまり歴史的に正確でなくなってしまったのがクリストファー・ノーラン監督『ダンケルク』(2017)です。この映画は非常にリアルな作品ですが、実はダンケルクにたくさんいた南アジア系兵士が全然登場しないことが批判されています。時代考証に若干手落ちがあったり、非白人が登場しなかったりすると映画の出来に悪影響が出るというわけではありませんが、場合によっては「あれ、インド独立前だからイギリス側に南アジア系がいたんじゃね?」みたいな発想があったほうが、時代考証が正確になることもあるのです。
「ポリコレ」では映画の面白さはわからない
上でいくつか例をあげたように、映画のキャスティングには「ポリコレ」の一言で片付けてしまうと見えなくなってしまうものがたくさんあります。芸術作品にはさまざまな工夫があり、一見、似たように見える表現が使われていてもそれが採用された理由や醸し出す効果はそれぞれ違います。「ポリコレ」という言葉でそうしたものをくくってしまうのは、表現の間の違いを無視し、均質化することです。
私の考えでは、映画の批評で「ポリコレ」という言葉を使うのは、否定的であれ肯定的であれ、ほとんど何も言っていないのも同じです。「ポリコレ」というのは外に表れた表現の形、コードのようなものだけに言及する語であって、「なぜそういう表現が使われるのか」とか、「この表現に潜む芸術的効果は何か」といったことには全く触れていないからです。ある作品に「ポリコレ」的だと見なされる表現が出てきた場合、重要なのはそれがどういう芸術的理念からきているかということで、ポリコレであることではありません。何らかの芸術的選択を行った結果として出来たものがポリコレに見えるだけなのです。「ポリコレ」と言って何か批評をしたつもりになってはいけません。その奥にクリエイターの深謀遠慮や複雑な工夫が潜んでいることもあるからです。それを探ることこそが映画や舞台を見る楽しみのひとつではないでしょうか。
参考文献
Courtney Lehmann, “Faux Show: Falling into History in Kenneth Branagh’s Love’s Labour’s Lost”, Ayanna Thompson, ed., Colorblind Shakespeare: New perspectives on Race and Performance (Routledge, 2006), pp. 69 – 88.
アガサ・クリスティ『オリエント急行殺人事件』古賀照一訳(角川文庫、1979)。