前回の「広辞苑のLGBTの説明がおかしい件」の記事は、思いがけず大反響となって全国各紙にも取り上げられた。岩波書店はホームページ上に訂正版をあげ、この件は落着となった。ホッとした。こういうのは雨降って地固まって虹が出たりするものかもしれないから「2018年はそんなこともあったね」と後の時代にふりかえられるように、LGBTの意味くらい学校でとっとと教えてくれと思う。
さて、今日の記事は前回多く寄せられた「そもそもLGBとTを一緒にしたことが間違いじゃないのか」というコメントについてのアンサーだ。「LGBはそれぞれ同性に(あるいは同性にも)恋愛感情や性的関心を持つ人たちのことで、トランスジェンダーというのは性自認と生物学的性のギャップ。なんで醤油らーめんと味噌らーめんを混ぜるようなことをするのだ。それぞれ別に食えばいいだろう」というご指摘である。ごもっともな部分と、それでもLGBTが有効な場面もあるよ、という部分の両方があるので整理したい。
まず、私が普段かかわっている子ども・若者支援の分野では、LGBTないし「LGBT(そうかもしれないと思っている人を含む)」という表記は、かなり「つかえる」。子どもたちのアイデンティティは大人以上に揺らぐからだ。かわいらしいものを好みスカートを履きたいと思っていた男児が20歳頃にはトランスジェンダーではなくゲイとして生きているとか、あるいはその逆、といったことは頻繁に起きる。こんなとき教師や周りの支援者がトランスジェンダーないし性同一性障害の知識しかなければ、この子どもに上手く接することは難しい。ゲイやレズビアンに対して良いイメージがなければ、なおさら困惑するだろう。また、一昔前にはトランスジェンダーという言葉はマイナーだったので、トランスたちは同性愛者のコミュニティに参加して自分探しをすることが多かった。揺らぎや模索といった部分があるから、支援の現場ではLGBとTを分けることは難しい。
それにトランスジェンダーの多くが、同時に性的指向においてもマイノリティであることもポイントだ。女性に性別移行したトランスに彼女がいたり、男性に性別移行したトランスがゲイだったりすることはよくある。「女が好きなら、おまえは本当は男なんだろう」とか言われるのは、世間の同性愛者に対する偏見のせいだ。それに私のようなトランス男子で戸籍が女というものにとっては、たとえ異性愛者で女性が好きだったとしても、法律上は同性カップルなので婚姻制度などはつかえない。愛する人の性別にかかわらず結婚させてくれ、という同性婚推進派の主張は、私にとっても他人事ではない。ほら、やっぱりLGBT、けっこうイケるじゃん。
でも、LGBTという括りがズッコけることもあって、トランス向けの胸をつぶすシャツを「LGBT向けの服」と新聞が報じてひんしゅくを買う(それはゲイ向けのおしゃれな下着なども含むのかとヤジられる)と言った使われ方の問題が大きい。社会的困難の面がまったく異なるのに「LGBTの働きやすい職場」を表彰するイベントをやれば、トランスジェンダーが性自認に沿ってトイレを使えない企業だってLGBTフレンドリーと評されることもある。昨秋開催された「Work With Pride」というイベントでは86社がゴールド賞を受賞していたが、トランスジェンダーが安心して就職活動できるところは具体的にはどこだ。ざっくりLGBTフレンドリーと評するだけでなく、トランスジェンダーに関する個別指標があったほうがわかりやすい。
そんなわけでLGBとTは、糸でつながっているものの、その扱いには作法がいる。雑な報じられ方や、ニーズの見落としの中で、最近ではLGBTという概念を嫌っている人もちらほらいるようだが、若者支援をしてきた私としては「使い方を嫌っても、LGBTのことは嫌いにならないでください」といった所感である。