社会

幼少期に性被害に遭ったことで「かわいい女の子」期間を経ることなく「女」になった私が、今も囚われていること

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 かわいいものに憧れながら、思い切ってかわいい女の子になることも、演じることもできない。女性的なものに身を包みながら、女に見られる振る舞いを嫌がり、でも女を捨てることもできない、そんな矛盾をずっと抱えて生きてきました。

 深刻な性暴力に遭った大学時代以降、性暴力に関する活動を通じてジェンダーについて考える機会が増えたことで、少しずつ落ち着いてきたものの、私はまだときどき引き裂かれています。

 近ごろは冷静な視点や周囲のまとめといった役割や、「真面目」という印象を求められることが多くなりました。今まで感覚で動いていたことを思考に落として問題を切り分けることができるようになり、前よりもそれを言語化できるので冷静でいることができるようにもなりました。それは私の新しい武器なんだと思います。

 でも卜沢彩子として人前に出ると、「性暴力被害者」「生きづらさに関心のある人」「真面目なことしか考えてない人」などがついてまわり、自分のほんの一部を拡大されているような息苦しさがあります。力の緩め方をときどき忘れそうになるのです。

無防備に振る舞うと起きること

 今は私のかわいげのなさやこだわりの強さやめんどくささ自体を面白がり、かわいがってくれる人と一緒にいようと思うようになりました。恋人になったことがある人、ごく親しい友人、パートナーのくま、親友の田村くん……。私の内側に置いたことのある人たちは私をかわいがってくれます。それは、すごくうれしい。憧れていた「かわいい女の子」とはまた別な気がするけれど心地よく、そういってもらえるのはおそらく私が無防備に振る舞えるからだと思います。

 それなのに、私は無防備に振る舞うことが怖いのです。

 無防備になればなるほど、したいようにすればするほど、「男を誘惑している」といわれるようになることを知っている。無防備になると、異性として好かれてしまう。性的な対象として見られる。女を求められるようになるーー傲慢で自意識過剰なのかもしれません。

 それでも学生時代はいつも守られた環境だったからまだ男女を気にしすぎず、無防備でいられました。しかしその後、再び性暴力に遭い、無防備でいたら自分を守れないと知ってから、人との距離を大きく空けるようになりました。人と距離をとった付き合いに慣れたことで、人と接するとき極端に構えすぎるところは少し和らいできたものの、やはりまだ人との距離間の正解がわからず苦労します。

かわいい女の子」は、青い鳥

 きっと私が歳を取ったら、「女」を求められることはなくなり降りることができても、今度は「女を出さないこと」「母」「妻」など違うものが求められ、苦しくなるんだろうと思います。

 私は男性が嫌いなわけじゃないし、性暴力に遭ったことやそれを話すことで苦しくなったり問題を抱えたりすることは現在はほぼありません。しかし性暴力に遭ったことは私の奥底に根を張っているのだと今でもたびたび気づかされます。きっとそういう自分と一生私は付き合いつづけていくのだろうと思っています。

かわいい女の子それは私の幻想であり、青い鳥なのです。完全に純粋なままかわいい女の子を続けれている人なんてほんとうはいないのだと思います。ただ、かわいい女の子だと自分が思う子を見ると、絶望的な気持ちになるときがあります。「私はああはなれなかった」と。

 女を乗りこなしながらかわいい女の子をやれる人に対しても。かわいい女の子をあきらめないで貫く強さも、私にはなかった。女を捨てることもできなかった。身体を鍛え上げて力で戦うこともできなかったーーそんなコンプレックスやこじれた感情が私の中に根付いています。これは私が持つであり決めつけでもあり、そんな自分の偏見で自分が苦しんでいるに過ぎないのです。

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