ドラマ『女子的生活』が描く「性別」というファンタジー 男女のあわいを巧みに体現する志尊淳

【この記事のキーワード】

「女/男らしさ」とトランス女性の多様性

 また第2話では、後藤が連れてくる、男子の内輪ウケ狙いでかまってもらうことに必死な同級生の高山田(中島広稀)に、みきが女性装の指南をするエピソードがある。ここでは、性別移行初期のみきが、かつて同じくトランス女性である元同居人のともちゃん(トランスジェンダー監修も担当する西原さつき)からコンプレックスをカバーするメイクテクを学んだことも示唆される。

 この高山田の女装のエピソードは秀逸だ。

 ガニ股で歩く女装のミニーさん(高山田のあだ名)と、左右の膝を交差させながらしなやかに歩くみきの対比は、歩き方をとおして「男/女らしさ」の構築性を描いている。衣装も秀逸で、ふたりのコントラストを際立たせている。ミニーさんの服装は、赤と白のチェック地のストールで首回りをおおって(輪郭を覆うことでごつごつと骨ばった「男性らしさ」をカバーしている)、ベージュの上着にからし色のトップスと白いスカートを合わせた柔らかなもの。一方みきは、黒いオーバーサイズのカーディガンにジーンズというラフでクールないでたちなのに、全体として圧倒的に柔和だ。「女らしい」とされる「柔らかさ」「おしとやかさ」といったイメージは、服装だけで決まるものではなく、振る舞いも重要ということが「歩く」というシーンひとつで伝わってくる。

 みき、後藤と共に、女装姿で出歩くことにしたミニーさんがコンビニで買い出しをする際に、梅酒を買いたいというミニーさんと、1話の合コンシーンで梅酒が好きと言うゆいのエピソードとも重なる。本作では「甘い口あたりの梅酒を飲む女」はかわいさをアピールする存在として批評されているということだ。

 また、同じく2話でみきは、トランス女性の多様性も言い当てている。

 まず冒頭で、「ともちゃんは単純を愛している、でもわたしは複雑が好き」というセリフがあり、性的指向においても、ともちゃんはシスジェンダー(性別に違和感を持たない)男性と恋愛している一方で、みきは女性との恋愛やセックスを楽しむ「トランス女性でありレズビアン」と、ジェンダーとセクシュアリティは同一ではないことがきちんと表現されている(「性的指向と性自認については、改訂された広辞苑の誤解とおなじく一般にも共有されている。くわしくはこちら)。

 それから、キス未経験だと高山田に告げられた後藤が「ミニーちゃんめっちゃピュアだねえ」と言うのに対し、その気になって「あたし、そういうのよく知らないから」と返している様子を見て、みきは内心「乗っかるのかそれ」「よくもまあ、そこまで自分を信じられるな」と引き気味に分析する。女装姿になってミニーさんとしてぶりっ子な振る舞いをするさまを批評しながら、ひとくちに女性(トランス女性)と言っても、そうした人もいれば、みきのようにクールで媚びない生き方も存在するということがさりげなく示されている。

トランス=まがいものという意識が潜む「女子よりも女子」発言

 志尊の演じるみきは、指の動き、歩き方、そのすべてが自然と言えるけれど、じつはその実践は積み重ねられた成果であるということは、2話でのミニーさん(高山田)とのやりとりをとおして「すぐにこうなれたわけじゃなかった」という話題になる点からもあきらかだ。しかし、これはトランス女性に限ったことではなく、じつはシスジェンダー女性だって無意識に行なっているはずのこと。

 たとえば、中学高校の多感な時期にファッションやコスメに関心が高まる女性は少なくないだろうが、校則でメイクが禁止されている場合がほとんどで、十代後半のころのじぶんの写真を見直してみると「メイクが下手」「整ってない」とおもう人もきっといるだろう。

 わたしたちは日々、周囲を観察したり、ファッション誌を見たり、研究熱心な人はデパート1階に行ってコスメ売り場のBA(ビューティー・アドバイザー)さんに指南してもらったりして、じぶんになじむメイク方法を探求したりする。ファッションも、試着を繰り返しながらじぶんの体型に合うもの、コンプレックスをカバーするもの、就労や就学にふさわしいものを選んだりするだろう。小学生や中学生といった子ども時代から、社会人になっても、周りに合わせて「派手にするのはやめておこう」とか「周りが『女の子は身だしなみをきちんと』と言うから従ってきた」といった経験に覚えがある人はきっといるんじゃないだろうか。

 こうした考え方はひるがえって、「おしとやかでかわいい振る舞いをもともと身につけているはず」という女性にたいする偏見、決めつけとも言える。本作を紹介するモデルプレスでの記事の視聴者コメントに〈みきちゃん可愛すぎて女子をやめたくなった〉というものがあるが、化粧がうまくなくても、洋服に興味がなくても、おしとやかではなく乱雑でも、身体がごつごつしていても、その人が「じぶんは女性だ」とおもうなら、それでいいはずだし、誰も否定なんてできない。

 本作は、おしとやかでかわいいという「典型的な女性像」にみきの振る舞いが決しておさまらない点でも秀逸だ。第1話で、突然転がり込んでくる高校の同級生だった後藤が、学生時代食べていたけれどハイカロリーだからとみきが控えている菓子パンを持ってくるのだが、それをほうばる際に「くっそうめー!」と言う。第3話でも、仕事のため日本海側にある田舎町に帰省する際にみきは「あーシナモンどちゃくそ入れたラテ飲みたい」と言う。また、みきはなにかというと無礼な(しかし、他者であるみきのトランス女性としての在り方を尊重し、学ぼうとする)後藤に対し、回し蹴りを披露する。女性だってあぐらをかくし、汚い言葉づかいをすることはあるはずだ。

 みきを演じる志尊淳の乱雑な言葉づかいや振る舞いは、しかしまったく下品ではない。トランス女性は、少しでも「おしとやか」「かわいい」「きれい」といった典型的な女性像からはずれた途端、「そういうところがやっぱり男だよな」と、わざわざ「元男性」であることを指摘され、蔑視されることがある。志尊の発声、発語のしかた、動きは「抑圧的な男性的振る舞い」や「バラエティ的おもしろおかしい元男性像の披露」に一切なっておらず、こうした繊細な表現は、現実に生きるトランス女性への敬意がうかがえる、見事なバランス感覚だとおもう。

 本作で、「そこに主人公・みきが生きている」としかおもえない、すばらしい演技を見せてくれる志尊淳に対して、先ほども引いたモデルプレスの記事に〈女子よりも女子〉といった賞賛がある。しかし、そうしたほめことばは、むしろ現実に生きているトランス女性に対する侮蔑になりうる。〈女子よりも女子〉という、トランス女性に対してよく聞かれるフレーズには(他にも「どうやったらそんなにかわいくなれるんですか?」という言い方もある)、「女性的とされる振る舞いを演じる」トランス女性はまがいもので、「女性的とされる振る舞いをもともと身につけている」シスジェンダー(性別に違和感を持たない)女性は本物、と本質主義的に差別化していると言えないだろうか。

 しかし、わたしたちはみな装って、振る舞って生きているはずだ。社会人を装い、学生を装い、母を装い、父を装い、娘や息子として装う。会社で上司に気に入られるような振る舞いを選び、周りから奇異な目で見られないように身だしなみを整えたり化粧をし、「親不孝者」「甲斐性なし」といったネガティブな扱いを受けたくなくて、家族を大切にする(もちろん心の底から「愛情を注いでいる」と断言できる人もいるだろうけれど)。

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