「私、大阪人やってんや……」と、つくづく思わされたのはニューヨークに住んで10年以上も経ち、ツイッターを始めてからだった。
ツイッターで見ず知らずの人とフォローし合ううちに、相手が関西人だと分かる瞬間がある。プロフィールに関西出身と書かれていることに気づいた時、もしくは関西のネタがつぶやかれた時のこともあるが、なによりふと出る関西弁だ。その瞬間に「!」となり、急激に親近感が湧く。
以後、その相手とは標準語と関西弁のちゃんぽんでやりとりを続けることになる。日本にいた頃からの関西人の友人とも同様だ。どちらか一方に偏ることはない。相手がなにかについてツイートする。標準語だ。同意を表すために「そやな」と関西弁でリプライする。すると相手から「せやろ」とさらなるリプライが来る。単語だけの、最小限のやりとりの行間に、同郷人どうしの言葉を超えた目に見えない繋がりが紡がれるのだ。この感じ、お分かりいただけるだろうか。
特殊な国ニッポン vs. 「ニューヨーク人間図鑑」
日本にいた頃、自分が日本人であるという自覚はほとんどなかった。日本は全人口の98.5%(*)が日本人という特殊な国だ。その中で生まれ育つと特殊性には気付けない。私にとって日本人であることは当たり前過ぎて、改めて意識する必要もなかったのだ。
*https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ja.html
そんな超日本人が、ニューヨークの多人種事情に興味を持った。ある時、なぜか手に取り、読んだ本『ニューヨーク人間図鑑』(草思社)が発端だ。1970~80年代をニューヨークで過ごしたノンフィクション作家の宮本美智子氏が多種多彩なニューヨーカーを観察し、永沢まこと氏が地下鉄や街中で描いたニューヨーカーのスケッチを添えたものだ。

『ニューヨーク人間図鑑』(草思社)
同書にはさまざまな職業のニューヨーカーやゲイ・ニューヨーカーも登場するが、私にとっての「多種多彩」とは人種のバラエティだった。宮本氏の生き生きとした描写に加え、人種の違いがはっきりと分かる永沢氏のイラスト。「そうかぁ、こんないろんな人種がおんねんなぁ……」と、とにかく感心したものだ。
その後、かなりの年月を経た1996年に私はニューヨークで暮らし始めた。当初は英語もなかなか通じず、自分の異邦人っぷりをまざまざと思い知らされた。デリでサンドイッチを注文するのに永遠の時を要した。パンの種類、ハムの種類、チーズの種類をいちいち聞かれるのだが、聞き取れないだけでなく、そもそもアメリカでのパンやハム、チーズの種類と名前を知らなかった。あげくに「トマトとレタスはいるか?」「マヨネーズとマスタードは塗るか?」「塩とコショーはどうだ?」と矢継ぎ早に繰り出される質問は、まるで尋問のように感じた。必死で応答しながら内心「なんでもえぇから普通のサンドイッチを早よ出して!」と半泣きだった。今にして思うとデリの店員はアラブ系であり、あちらの英語にもお国訛りがあったはずなのだが、当時はそれも分からなかった。
こんなふうに英語と文化の両方で苦労しながらも、自分が日本人であるという自覚はそれほど湧かず、異邦人、外国人、移民、非英語話者……といった意識のほうが強かった。
やがて英語が少しずつマシになり、ニューヨークの社会事情も徐々に理解できるようになると、やはり人種に目が向いた。なかでも強い関心を抱いたのは黒人文化だ。ライターとしての初仕事も黒人問題についてだった。ニューヨークの多人種社会への関心も持ち続け、のちに世界各国からニューヨークにやってきた移民たちへのインタビュー・シリーズを手がけた。
ホンジュラス、フィリピン、ドイツ、マリ、ジャマイカ、メキシコ、南アフリカ共和国、韓国、パキスタン、ポーランド、イギリス、グアテマラ、ベトナム、ハイチ、ルーマニア、トリニダード・トバゴ、台湾……30人近くをインタビューした。それぞれ英語に祖国の訛りがあり、祖国の文化とプライドも掲げていた。かつ全員がニューヨーカーでもあった。人のアイデンティティは必ずしもひとつではないことを学んだ。
こうした人々を目の当たりにしたからこそ、自分自身の日本人としてのアイデンティティは置き去りとなったのかもしれない。観察者として他者を描くことに忙しかったのだ。とは言え、人種社会アメリカで自分を人種的マジョリティの白人と錯覚することも、黒人コミュニティに住んでいるからといって黒人と錯覚することも到底あり得ず、「アメリカに暮らすアジア系」であることは常に強く意識していた(もしくはせざるを得なかった)。ただ、そこから「日本人」へと繋がらなかったのである。