「古泉さんの“サブカルチャーは雑誌”は正しい」(町山)
町山 いとうさんは、大学時代にはもう有名で……。そのころ「大学生ブーム」っていうのがあったんですよ。博士は知ってると思うけど。
古泉 『オールナイト・フジ』みたいなのですか?
町山 そうそうそう。大学生がいろんなイベントに出たり、テレビに出るっていう、すごく気持ち悪い大学生ブームってのがあったの。
古泉 あっ、『ザ・ガマン』とかもそんな感じですか?
町山 そ! その通りですよ! 大学のサークル単位で出るっていう。で、そのときにPARCOが学生のお笑いコンテストをやったんですよ。そのとき最後まで残った3人が確か「いとうせいこう・デーモン小暮・小峯隆生」なんです。
古泉 えっ、デーモン小暮さん?
枡野 デーモン小暮さん……。
古泉 小峰隆生さんは『週刊プレイボーイ』編集者の! すごいメンバーですね!
町山 それがトップ3だったんです。
古泉・枡野 ほおおお~~!
町山 それで、いとうさんはそのときに「優勝したらなにがしたい?」って聞かれて、「タモリさんの手伝いがしたい」と言って、タモリさんの『オールナイトニッポン』のハガキを選ぶ仕事に就いたという……
博士 あの、ごめんごめん。このあたり、正確に言うと、いとうさんはADを1年やるんですよ、タモリさんの番組の。そして大学5年目に断り切れず、ニッポン放送でラジオの帯番組を開始してるんです、いとうさんは。
古泉 カッコいい~!
博士 大学5年行ってるんですね。
町山 だから俺と入社が同じ年なんだ!
古泉 でもラジオのレギュラー1年間やってから出版社に就職するのがすごいですよね、いとうさん。
博士 それで、ニッポン放送と雑誌『ビックリハウス』[注]が組んだ「珍芸自慢大会」というライブに出演するんです。
町山 審査員が『ビックリハウス』編集長の高橋章子さんだったんですね。
博士 高橋幸宏さんもいて……
古泉 YMO!
町山 審査員には景山民夫さん(作家)もいて、いとうさんは景山民夫さんのグループに入るんです。だからさっき古泉さんが「サブカルチャーって雑誌なんでしょ」って言ったけど、それは全く正しいね。「ビックリハウス」が始まりだから。雑誌なんですよ!
古泉 そうですよね!
町山 『ビックリハウス』は読者の投稿が中心のジョーク雑誌で、僕は中学2年の頃に何回か採用されて、僕らやケラさん……大槻ケンヂくんとかは、「ビックリハウサー」と呼ばれる『ビックリハウス』の投稿者グループなんですよ。
枡野 大槻さんが投稿してたのは知ってるんですけど、町山さんも投稿されてました?
町山 僕もちゃんと投稿していて、その頃は韓国籍だったから、やなぎ……柳って名字で。(投稿者の順位で)2位かなんかになってますよ。
古泉 すごいじゃないですか!
博士 俺も当時『ヘンタイよいこ新聞』[注]に投稿してた……。
町山 『ビックリハウス』って、ラジオの深夜放送の雑誌版だったんですよ。だから深夜放送もサブカルじゃない? そう考えたら。
枡野 そうですよねえ。
町山 大槻ケンヂくんは僕より一つか二つ下で、投稿してたのね。
枡野 「ビッグムーン大槻」とかいう名前で、確か。
町山 『宝島』は、『ビックリハウス』の前からあって。最初、アメリカの『Rolling Stone』[注]っていうロック雑誌の日本版として企画されていて、版権がとれなくて、『ワンダーランド』という雑誌でスタートしたんです。
博士 それはだって、『宝島』には植草甚一時代もあるから。
町山 もともとアメリカの『Rolling Stone』っていうのは同人新聞だったんです。
古泉 本を読みましたよ。『ローリングストーン風雲録』。
町山 若者たちのロックや政治批評を集めた新聞だった。そこから発生したものが「カウンターカルチャー」なので。アメリカではそういう同人誌は「ZINE(ジン)」と呼ばれて、70年代のアングラカルチャーを牽引したんですね。。
博士 それでいったら、俺でいうと『スタジオボイス』[注]がすごく『Rolling Stone』に似てて、その誌面に出てきてた人が、サブカル感がまずすごい強いですね。
古泉 『スタジオボイス』はデザインがカッコよかったんですよ。
町山 『スタジオボイス』はアメリカの『Interview』という雑誌をもとにしてたんですよ。アンディ・ウォーホルが創刊した雑誌。
博士 そう。『Interview』誌と提携してた。
町山 だからニューヨークのサブカルチャーが『Interview』で、サンフランシスコが『Rolling Stone』だったんです、アメリカでは。それで『Rolling Stone』から『宝島』が生まれて、『Interview』から『スタジオボイス』が生まれたんですよ。その『スタジオボイス』にみうらじゅんさんが連載してて、その担当編集者が『宝島』編集部に来たりして、それで2つの編集部で行き来があったんですよ。