昨年末、ミニストップが全国の店舗で成人雑誌の取り扱いをやめることを発表しました。それは結果的に、店側が雑誌の内容について自主的に規制をかけるということになります。しかし、憲法が定める通り、日本には表現の自由があります。わたしたちは、表現の自由と性表現の規制について、どのように考えていけばいいのでしょうか。それを考えるヒントが、法政大学社会学部准教授の白田秀彰さんが昨年8月に上梓された『性表現規制の文化史』(亜紀書房)にあります。
インタビュー前編ではえっち――すなわち性表現の規制について言い争うことそのものについてのくだらなさについて白田さんに語っていただきました。後編では必ずといっていいほど性表現とセットで語られる、暴力表現について聞いています。
性表現にくらべ暴力表現は議論されていない
――『性表現規制の文化史』を読んで「えっちなのはいけないと思います」という規範がどのようにつくられていったのかはよくわかりました。ただ、人はその規範意識からなかなか自由になれませんよね。つい先日も、ミニストップが成人雑誌の取り扱い中止を発表しました。先生の本を読んで性表現が無条件に規制されるべきものではないと感じますが、一方で暴力的な表現や子どもを性的欲望の対象にした表現が誰にでも簡単に見えるという状態がどこまで許されるのかには疑問も覚えています。
白田:本書の第五章に関わる問題ですね。まだ判断の出来ない子どもについては、親が見せたくないというのなら規制してもいいだろうというのが、1970年にまとめられたアメリカの『猥褻とポルノに関する大統領諮問委員会報告書』の結論でした。
それを受けるかたちで現在の日本でも18歳未満の青少年には性や暴力などが露骨に表現されている「有害図書」の販売を禁止するなどの保護規制がかかっています。ただ、私自身は子ども本人がえっちなものに関心を持った段階でその人はもうすでにえっちな人だと思うんです。そういうことに関心を持たずに第二次性徴までいく子もいるでしょうけれど、幼稚園に入る前には関心を持つ子もいる。その子に「成人するまで見せない」という選択をしたところで何か意味があるでしょうか。
そして性的な関心が生まれた子どもに、しかも第二次性徴がはじまったあとに、性的なものから遠ざけるのは、私に言わせれば人権侵害じゃないのかという気がします。もちろん親には子どもの監督権があるので、問題ないという立場はあるでしょうけれど、生物としての子どもが欲求しているものを制度的に排除するのはどうなんだろうという気がしますね。
――「えっちなもの」に対してなんらかの規制を推奨したり、あるいはその表現について批判や嫌悪感を示す人の中には、性的な表現というよりは、“暴力的で”性的な表現を批判する人もいます。いま白田さんがおっしゃっているのは、暴力的な表現も含んだ「えっちなもの」ですか?
白田:いえ、暴力表現はなるべく減らした方がいいと私は思っています。
――意外ですね。「性表現と同様に暴力表現も問題ない」というお考えではないんですね。
白田:ええ。現実世界では、嫌がってる人に対してなんらかの行為を強制するのは基本的にだめなことです。暴行罪、脅迫罪に該当しますからね。そして私は表現においても、暴力、レイプ、凌辱系などの暴力表現は、それが具体的な害をもたらしていると合理的に判断できるならば規制しても構わないと思っている立場なんです。
ただ、成人雑誌に限らず少年向け雑誌ですら――あるいは少女向け雑誌さえ――相手の嫌がる性的な行為を肯定的に描いていますよね。暴力が娯楽の一部になっているのは、私個人としては不愉快です。性表現を規制するというならその前に暴力表現を規制すべきだろうと思うのですが、これはなかなか賛同が得られない。これはこの本でははっきり書きませんでしたが、その理由は社会が暴力を要求しているからだろうと思うんですね。
――なぜ社会が暴力を求めるのでしょうか?
白田:やはりいざ戦争になったら男は戦争に行ってほしいと思っているからじゃないでしょうか。あとはもしかしたら男性が――あるいは女性でも――結局のところ社会は闘争だと暗黙のうちに受けいれているから、暴力を一種のエンターテインメントとして消費しているんじゃないかなという気がします。
だからこそ逆に、どうして性表現だけがこんなふうに目の敵にされるのだろう? というのがこの本を書いた動機のひとつです。基本的には相手が嫌がることはだめだろうと思うのですが、では例外とはどのようなものか、それはなぜ例外とされるのかなど考えるべき問題は多々あります。
――「暴力描写があっても表現である限り社会に実害を与えているわけじゃない」という意見もあると思うのですが、暴力に関しては規制した方がいいという立場なんですね。
白田:性表現と暴力表現では、仮にその表現に影響されたとき生じる状況を比較してみれば、暴力のほうが具体的な害悪に結びつくわけですから、個人的には暴力表現は性表現よりもより抑制になじむと考えています。ただ、表現を規制していい条件は、あくまでもその表現によって実際に社会的な害悪が発生していることが立証された場合です。そのためにアメリカでは大統領諮問委員会は、えっちな表現のために害悪が発生しているかどうかを莫大な費用を費やして調査・研究したわけです。しかし実際に調査したら害がないということが明らかになって大騒ぎになった。それが本書の第五章でした。
つまり表現を規制するときの理由は、この表現のためにこういう害悪が発生しているという因果関係が明らかになったうえで、これを抑制する場合に限ります。だから、暴力表現に関してもどこまで容認されるのか、本当は学者や専門家が実証的に調査して明らかにすべきです。
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