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家庭教育支援法案は、再び「女・子ども」を底辺に押しやりかねない【「家庭教育支援法案」の何が問題か?】

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Thinkstock/Photo by KatarzynaBialasiewicz

129日、衆議院第二議会会館にて、自民党が国会提出を目指している「家庭教育支援法案」の問題点や懸念を示す集会が「24条変えさせないキャンペーン」によって開かれた。

20172月14日の朝日新聞によれば、「家庭教育支援法案」には、「家庭教育を『父母その他の保護者の第一義的責任』と位置づけ」、「子に生活のために必要な習慣を身に付けさせる」ことや、支援が「子育てに伴う喜びが実感されるように配慮して行われなければならない」ことなど」が盛り込まれ、さらに素案段階には存在していた「家庭教育の自主性を尊重」が削除されている、という。また、家庭教育の重要性や理解、施策への協力を、地域社会の「役割」(責務から役割に変更された)とも規定されている。

ここからわかることは、「家庭教育支援法案」には保守的な家族規範を強化、公権力が家庭に対して介入する可能性があること、そして地域社会によるプライバシーの侵害や監視社会化など、様々な危険性があるということだ。「家庭教育支援法案」の何が問題か、29日に登壇した弁護士の角田由紀子さん、室蘭工業大学大学院准教授の清末愛砂さん、ルポライターの杉山春さんの発表の様子をお送りする。

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 弁護士の角田由紀子です。

 憲法24条(※編集部注1)は、戦前の家制度に法的決着をつけたものです。24条が目的としたことは、家制度との明確な決別であったこと、特に家父長制からの女性の解放であったことが当時は憲法学でも確認されていました。

 24条は、徹底して個人を尊重するものです。直接の文言は夫婦の関係についてのものですが、家族の中での人間関係の基本を定めています。夫婦も子どもも家族のメンバーとして対等・平等であると宣言していると私は理解しています。家族メンバーすべてが個人として尊重され、その相互の関係に適用したものと説明されています。

 戦前から戦中にかけて、日本の家族に求められた役割は、天皇制、つまりは家父長制の社会の仕組みを底辺で支えるものでした。その底辺の底辺に位置づけられていたのが、文字通り「女・子ども」です。

 24条の基になったベアテ草案(※編集部注2)は、男性の支配ではなく、結婚する当事者の意思のみ基づいて婚姻は成立することを宣言しています。もっとも尊重されるべき当事者の意思が最も無視されてきた歴史は、日本の女性たちに苦難の婚姻生活を強いました。ベアテ・シロタ・ゴードンさんは「親の強制ではなく相互の合意に基づき、かつ男性支配ではなく両性の協力に基づくべきことをここに定める。これらの原理に反する法律は廃止され、それに変わって、配偶者の選択、財産権、相続、本居の選択、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項を、個人の尊厳と両性の本質的平等の見地に立って定める法律が制定されるべきである」と書いています。

 憲法24条は、婚姻の自主性を宣言し、13条及び14条(※編集部注34)と共に、個人こそが大事であるとする思想の宣言であり、それこそが新しい民主的な家族及び社会の関係を築くものと期待されました。その宣言によって、家父長制に基づく旧来の家族は、その法的支柱を失い、個人が平等で、尊重されるべきものとする新しい法的支柱が打ち立てられます。個人主義的家族観が求めるべきものとされたのです。これは、当時は女性の解放であったし、家族という関係での個人尊重を築くことは、民主的な社会の基礎であることが確認されたものでした。家族の構成員は、自主的な思考をする人間であり、自分の「頭」を持つことが重要とされたわけです。

 戦前、戦中の社会は家族に象徴されたミニ天皇制が積み重ねられていましたが、その基礎にあった家族が大きく変貌したことで社会は個人を尊重する民主的なものを目指しました。そのような家族で育まれる個人は、憲法の平和的生存権を支える存在です。憲法9条を内部から支える人間の育成が、24条の役割でもあります。自分を尊重し、同じように他人を尊重する人間が、求められたのです。

 ですから、9条を書き換えただけでは、戦争のできる国は作れません。それを支える人間が必要です。その人間を作るために、憲法24条の「改定」と「家族教育支援法案」が必要とされているわけです。

 安保法制法の制定に反対した国民・市民の運動は、憲法24条によって育まれた自立した人々によって担われました。「安保関連法に反対するママの会」が「誰の子どもも殺さない」をスローガンに掲げていましたが、「敵」とされた人であっても、誰の子どもも殺さないと誓える人間は、憲法24条が育てたものです。

 家族教育支援法案はまだ正式に示されていませんが、201610月段階で知らされた内容によれば、構想されている家族は、憲法24条とは正反対の思想に基づくもののようです。家庭教育の推進が、努力義務とはいえ、義務とされています。地域の人々の連携で取り組むとされるところは、かつての隣組を彷彿とさせます。

 公開されている自民党の憲法24条改定後は、現行24条の核心ともいうべき「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する」という規定から「のみ」を削除して、婚姻に当事者以外の介入を許すものとなっています。

 家庭教育支援法案も同じ思想にもとづくものでしょう。

 この法案を支持する立場の人たちは、どうやら「教育勅語」を、否定するどころか積極的に支持するようです(※編集部注5)。教育勅語の片言隻句を取り出して、今でも通用する道徳が語られているなどと「評価」しています。

 例えば「夫婦相和し」というのは、いいことだといいます。しかし、教育勅語が作られ「活用」された歴史の文脈を無視しても議論に乗せられてはいけません。教育勅語の作られた時代は、明白な家父長制の時代であり、女・子どもは、一人前の人間扱いされなかった時代です。「夫婦相和し」の夫婦の、夫と妻の関係はどうであったでしょう。当時の民法は、妻の無能力を規定していて、その理由は「夫婦円満のため」と民法学者が説明していました。妻が、夫にものを言うことは、夫婦円満に反するということが前提とされていたんです。これが、生前の、教育勅語がとなえる「夫婦相和し」の世界です。家族の中の人間関係は、戸主を頂点にしたミニ天皇制であり、序列社会でした。しかも、常に男性が頂点に立ち、女性は常に男性の下という構造です。

 家庭教育支援法案が考える家族の関係が、憲法24条のいう個人が尊重される民主的なものである保障はありません。法案によれば、家庭に「支援」という名のもとに行政などの公権力の介入が許されます。介入の対象は「すべての家庭」であり、「日常の子育て」です。子育ては、親の生き方の問題であり、親の思想の問題です。日々、どう生きるかを模索し、実行していく営みです。このような「日常の子育て」は公権力を介入して全国一律のものとすることに最もなじみません。どんな子育てをするかはそれぞれの親の考えによるものであり、国や行政が口出しすべきものではありません。戦後、私たちはそのようにして自分たちの子どもを育ててきました。それで何ら不都合はありませんでした。行政が個人の精神生活でもある子育てや家庭生活に介入することは、国民への思想的介入であり、憲法19条(「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」)を奪うものであり、憲法98条「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部または一部は、その効力を有しない」にも反するものです。

 戦時中、国が家庭に介入して国に都合の良い戦士や労働者を育てることを押し付けました。自分で考える力を持たない、国にとって好都合な人間の大量生産がなされたわけです。それらの人々は、国策に無批判に従い、ついにはあの戦争に参加し、場合によっては積極的に、数え切れない死者を国の内外で産みました。まだ70年ほど前のことです。

 家族は、兵士と労働者の供給源とされ、「産めよ殖やせよ」と資源としての人間の製造が奨励されました。母は兵士を育てて国に差し出す任務を負わされました。最近の婚活・妊活にも悪夢の時代の再来を感じます。人間を資源扱いすることはあってはなりません。

 戦時中、政府は教育を手段として家族道徳に介入しました。

 1942年(昭和17年)、文部省社会教育局は「戦時家庭教育指導要領」を公表しています。

「戦時下の家庭教育の政策で問題とされたのは、いかに母親を戦時体制へ動員するかという点であった。家庭教育が国家統制の支配的秩序に組み込まれたことで、母親は戦時動員の対象として前面におしだされることになった」(内田博文「憲法と戦争」みすず書房)

 いま起きている「家庭教育支援法案」は、この痛恨の歴史の再現ではないでしょうか。私たちは、戦争を経て、戦前の家庭に介入した教育の間違いであったことを骨身に染みて学んだはずです。愚かにもそれをなかったことにして同じ間違いを繰り返そうとするのでしょうか。歴史に学ばないものは、自分も他者も不幸にします。

 家庭教育支援法案が家庭に持ち込まれることになれば、憲法24条が求めている個人の尊厳だけでなく、男女平等も失われるでしょう。自民党の24条改定案は男女平等も否定するものであるからです。再び、女性は男性を頂点とするピラミッドの最底辺に位置づけられることなどあってはなりません。

 子どもたちに本当に未来を保証するのであれば、彼らに自由な精神生活と健康で安全な生活を保障しなければなりません。そのためには、ひもじい子どもなど存在させてはなりませんし、好きなだけ勉強もできる環境を整えるべきです。行政のやるべきことは、そのような意味での環境整備であり、親子の精神生活の介入ではありません。税金も、そのような施策にこそ使うべきです。

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(編集部注1:憲法24条「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない)
(編集部注2:ベアテ・シロタ・ゴードンによる、日本国憲法第24条の草案のこと)
(編集部注3:憲法13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」)
(編集部注4:憲法141項「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」)
(編集部注520173月、安倍晋三内閣は戦前・戦中に使われていた「教育勅語」を「憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」と閣議決定している)

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