2017年、世界三大映画祭のひとつベルリン国際映画祭で銀熊賞(脚本賞)を受賞し(コンペ部門では最高賞である金熊賞の候補にもあがっていた)、本年度の第90回アカデミー賞で外国語映画賞にノミネートされている『ナチュラルウーマン』(セバスティアン・レリオ監督)が、2月24日から日本で公開される。本作の主人公は、チリ・サンティアゴでウエイトレスとして働きながらシンガーとしても活動するマリーナで、トランスジェンダー女性、つまり生物学的に男性とされる身体を持ちながら社会、文化的には女性として生きる人物だ。
マリーナを演じるダニエラ・ヴェガ自身もトランス女性ということもあり、注目されている向きもある。しかし、ヴェガはいくつかの映画祭で役者として受賞もしており、トランスジェンダーという属性が飛び道具的なものではなく、シスジェンダー(男女という身体の性別、性別役割、性表現に違和感を持たない)の役者たちと変わりなく演技で評価されているという証左だと考えられる。
本作の原題はスペイン語で「すばらしい女性」の意で(「Una Mujer Fantástica」:英語だと「A Fantastic Woman」)、まさにその名の通り、ヴェガによってマリーナはたいへん魅力的な存在として構築されている。
トランス女性への蔑視を映画的飛躍で回収
マリーナは、父親ほどの年齢に見えるオルランドと付き合っており、誕生日をいっしょに祝っている。しかし、その夜オルランドは体調不良を来たし、そのまま帰らぬ人となってしまう。この件をきっかけに、マリーナはオルランドの元妻・ソニアや息子・ブルーノと接触することとなり、彼らの厳しい偏見、差別意識に晒される。こう書くと、「トランスジェンダーが厳しい状況のなか健気に生きるお涙ちょうだいもの」とおもわれるかもしれないが、本作はそのような枠には収まらない。
マリーナは整った顔立ちをしていて美人だと言える。けれど、決して華奢でか弱い体格ではなく、引きのショットが全身を捉えると、肩幅の広さや筋肉質気味な腕や太ももなど、シスジェンダー女性と比べて目につく部位もある。こうした特徴を捉えてだろうか、トランス女性であることを侮辱する人物が本作にも登場するが、マリーナは決して屈しない。そのマリーナのタフで、しなやかな姿はダニエラ・ヴェガという器によってまぶしく受け止められている。
また、セバスティアン・レリオ監督は、死んだオルランドの亡霊を登場させたり、そのオルランドのお葬式への参列を妨害するソニアらの抵抗にマリーナが立ち向かう様子などを、幻視的な映像として表現するといった手法を用いて人間くさすぎるドラマには仕立てず、映画のフィクション性を観客が楽しめるようなつくりにもなっている。
とは言え、本作でマリーナが受ける差別や偏見は、現実にトランス女性が受けてもおかしくないほど生々しくもある。
たとえば、予告編にも登場する、オルランドの死を「不審」と決めつけ、マリーナの職場のカフェにまで足を運ぶ性犯罪捜査官・アントーニアとの関わりだ。この無礼な捜査官は、父子ほどの年齢差もあってかマリーナとオルランドの関係を、お金のつながりによる身体だけの関係なのではと見なし、不躾にも質問を重ねる。「不審死には不審な人物が関わっているはずだ」と言わんばかりだ。
また、ソニアは、元夫の車を返してほしいとマリーナと初めて会うが、自分を「普通」と定め、マリーナを「変態」と呼んだあげくに、「目の前のあなたを理解できない」として「キマイラ」(ギリシャ神話に登場する、ライオンの頭、ヤギの胴体、蛇の尻尾を持つとされる怪物)と名指す。そのうえ、マリーナという名前を尊重せずに、わざわざ「ダニエル」と男性名で呼ぶ。息子のブルーノも同様に、マリーナを異常者扱いする。
トランス女性への偏見が暴力に変わり、被害を受けるという点はNetflixでシーズン5まで製作されている『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』(以下、OITNB)でも描かれている。シーズン3で、トランス女性で受刑者のソフィアは、「男がなぜここにいるのか」と同じ女性として見なさないシス女性の受刑者による蔑視にさらされる。この直接的な暴力描写は衝撃的だ。問題の再発防止のためにソフィアが懲罰房に隔離されるという展開は、騒動を起こしたわけでもないのにマイノリティに問題の原因が帰属されるという点で、『ナチュラルウーマン』でオルランドの死をめぐって「なにか怪しい」とマリーナが見なされてしまう状況とも、構造的に重なる。
直接的な暴力ではないけれど、NHKで放送されていたドラマ『女子的生活』でも、主人公みきがトランス女性だからと向けられる、身体や人格に関する不躾な質問や不審者扱いといった、偏見や差別が描かれている。最終回では、みきを慕うマナミの婚約者・ケンイチが、「男性だから気をつけろ」という主旨でみきの身体の性別にわざわざ言及して「怪しい」と決めつけていた。シスジェンダーでヘテロセクシュアル(異性愛)が「当たり前」とされる価値観からすると、ジェンダーはトランス女性で、恋愛対象(セクシュアリティ)は女性のレズビアン、というみきの在り方がケンイチにとってはなじみがないから疑わしさを抱いているのかもしれないけれど、みきだって女性だったら誰でもいいわけではないはずだ。
このように暴力を伴わずとも、トランスフォビア(トランスジェンダー嫌悪)と言える視線は、ざんねんながら現実にも日常的に存在する。
『ナチュラルウーマン』でマリーナは、偏見に満ちた疑いによって、裸になって身体検査を受けることになるのだが、予告編でも見られるこの場面は、トランスジェンダー女性にとって何重もの意味で屈辱的だ。まず、裸になるというプライベートな場所の露出を意志に反して強いられること、次にそれが「トランス女性と恋愛関係の男性の死には何らかの異常性があるはずだ」という無根拠な疑いによるものという点、そしてシスジェンダー女性の胸や体格とは異なる身体を視認されるというコンプレックスも喚起される。セバスチャン・レリオ監督は、マリーナの心情をわかりやすく見せず、音楽などで悲壮に飾り立てたりしない。だからこそ余計に痛切に響く。
しかし、この「トランス女性が裸になる」というネガティヴな意味づけが、価値の発見に転じられる重要なエピソードがラスト間際に仕掛けられており、トランス女性を一面的には収めない本作のフィクションとしての飛躍を活かす伏線ともなっていて、見事だ。
マイノリティを他者化する視線に揺れる自己像
わたしの友人のトランス女性から、ホルモン投与をする前には両親から大反対を受けていたけれど、縁を切る覚悟で踏み切ったところ、だんだん女性的になっていく子を前に応援するようになっていった、という話を以前聞いた。これは、性別移行前には(ホルモン投与の健康面での身体への影響含め)どういうものかわからないから、ではないだろうか。しかし、実際変わっていく様子を目にし、その様子が「化け物」などという想像の産物ではなく健やかなものであれば、受け入れられる可能性は上がるとおもう。『女子的生活』の第3話の、父親からの「みき」という女性名の呼びかけにはそういう意味が込められているとおもったし、起こりうるリアリティが感じられた。
しかし、とは言っても、既存の「女性らしさ」に(例えば声、肩幅、胸のつくりなど、部分的にであれ)当てはまらない造形であると、「異様」と見なし、同化することを奨励する向きもある。これは悪意があってではなく、「その方がいいとおもって」という場合も少なくないから厄介だ。髪の毛が短いより長い方が、醜いより美しい方が、胸が小さいより大きい方が、トランス女性にとって良いことだろうとアドバイスしてくる人はいる。時に美容整形を薦める人だっている。しかし、本来はその人の造形がゴツゴツと骨ばって見える、いわゆる「男らしい」様相でも(これはシスジェンダーの女性から「顔が男っぽい」という劣等感として聞くこともある)、その人自身がこの社会で女性として生きることを望んでいるのであれば、他人がとやかく言うものではないだろう。
そういう点から見ると、『女子的生活』のみきが、最終回で髪をバッサリ切ったのは痛快だったし、また「その先」が見たくなるような見事な終わり方だった。
一方、『ナチュラルウーマン』では、「らしさ」の揺らぎとして鏡像が随所に散りばめられている。鏡像は、特にトランスジェンダーが晒されやすい、自己像と他者からの認知のズレをあらわしているのだろう。先述の、オルランドの元妻や息子らからのマリーナに対する決めつけは、その一例だ。ある者は「彼女」と呼び、ある者は「彼」と呼ぶ。「マリッサ」と誤った名前で呼び続ける者もいる。他称によって、ときにそのズレがアイデンティティを引き裂くような痛みを生むだろう状態が、鏡像という表現で示唆されている。
しかし、このモチーフについても、マイノリティの肯定として効果的に働くエピソードが見事なかたちで用意されていて、静かに心揺さぶられる。
映画、テレビドラマにおけるトランスジェンダー女性たち
2000年代には、『トランスアメリカ』『リリーのすべて』といった、トランス女性が中心となる映画作品が発表され、それぞれ主演俳優がアカデミー賞の候補、受賞に至っているけれど、シスジェンダーだった。志尊淳が『女子的生活』に主演すると発表されたとき、トランス女性の当事者らから「(黒人を白人が演じないように)トランスジェンダー役を当事者になぜ演じさせないのか」というクレームが湧いた。そうした問題提起も重要だが、日本ではそもそも、演技訓練の積まれたトランスジェンダーの俳優が圧倒的に少ないことや、そうした人々が描かれる機会自体が少ないという、いくつかの問題が重なっているのだと推測する。
近年は、『ナチュラルウーマン』のダニエラ・ヴェガだけでなく、映画『タンジェリン』のキタナ・キキ・ロドリゲス、マイア・テイラーや、先述のOITNBのソフィアを演じているラヴァーン・コックスといった、トランスジェンダー女性が「普通に」俳優として起用され、評価されているのは変化の兆しと言える。また、Amazonプライムのオリジナルドラマシリーズ『トランスペアレント』では、メインキャラクターの、3人の子どもを育てて老年になって性別移行をするトランス女性を演じるジェフリー・タンバー(シーズン4までで降板)はシスジェンダー男性だが、その性別移行に伴って周りに増えていくトランス女性/男性らの役には当事者が起用されている。
また、Netflixのドラマシリーズ『センス8』を作ったラナ、リリーのウォシャウスキー姉妹は、かつてラリー、アンディの兄弟として『マトリックス』シリーズを手掛けており、トランスジェンダーのクリエイターがメインストリームに現れつつある。ちなみにこの想像力豊かなSF作品には、様々な国籍、人種、ジェンダーの人々がメインキャラクターと出ており、中でもトランス女性のジェイミー・クライトンの配役も目を引いた。
『タンジェリン』は、ショーン・ベイカー監督やプロデューサーが入念にリサーチを行い、出演もしているトランス女性らとコミュニケーションを重ねて、トランスジェンダーにとどまらない多層的なアイデンティティにふれられる傑作として作り上げられた。これまで映画やテレビドラマなどで極端に誇張された特殊な存在として扱われがちだったトランスジェンダー像として見るのではなく、シスジェンダーと変わりない存在として向き合おうとすれば、当事者でなければふれてはいけないということにはならないはず。また、トランスジェンダーがシスジェンダー同様のありふれた存在であることをメディアが伝えたり、あるいは作り手や出演者としてメディアに関わるきっかけが一般的になれば、より豊かな視座の含まれた作品が生まれるのではないだろうか、ということも考える。
トランスジェンダーである個人が自認する性への他人からの尊重をめぐる葛藤や軋轢と、シス/ヘテロである人と同様にこの世界にただ「普通に」生きる存在であるという示唆、が本作のテーマのひとつだ。しかし、主演のダニエラ・ヴェガ来日を報じた日刊スポーツの記事では〈心と体の性が異なるトランスジェンダーであることを公表しているヴェガが、同じ境遇の男性を演じた〉と、トランス女性を「男性」と名指してしまっており、まさに本作に登場するマリーナを「男」と見なす視線と同質になってしまっている。
こうしたトランスジェンダーの尊厳を損ないかねない出来事や言動や表現に、当事者がいちいち指摘するのには骨が折れる。その点では、『女子的生活』は、みきへの偏見について同居人の後藤が異議申し立てをする役割を担う、というエピソードが画期的だった。後藤は、みきに対して無知な言動をぶつけてしまうこともあるけれど、すれ違う経験から学ぶことのできる人物として描かれている。
コミュニケーション可能なナチュラルな存在としてのトランス女性像
『ナチュラルウーマン』でも、シス/ヘテロが「当たり前」だと信じられている人々がトランスジェンダーを「特殊な存在」と見なし、差別や偏見を向ける一方で、マリーナの働くカフェのオーナーだろう女性が普通に接している様子も描かれている。また、オルランドの弟・ガブリエル(ガボ)はマリーナがトランスジェンダー女性だとわかっても、ソニアやブルーノとは同調せず、「彼女」と呼び続ける。マイノリティを他者化し、決めつけるような姿勢ではなく、一個人として付き合いができるという点で、『女子的生活』の後藤とも重なるところだ。
『ナチュラルウーマン』の監督はシスジェンダーだろうけど、トランスジェンダーのダニエラ・ヴェガと共に作られ、ヴェガの存在なくして成立しないと言える。そのすばらしさは特異性(fantastic)でもあるけれど、他者化せず、性別や人種が同じだろうが近かろうが差異はあって当然で、そうした普通に存在するもの(natural)としてコミュニケーションが取れれば……という可能性を豊かに示唆している。
本稿で、わたしはマリーナを「トランスジェンダー」と説明してきたけれど、映画の中でマリーナがそう自称したことは一度もない。つまり、この映画は厳密には「トランスジェンダーを描いた作品」というより、そういう属性を持つ個人がただそこに存在するだけで、周りから不当に名指されたり、あるいは当たり前のように尊重される様子が描かれているだけ、とも言える。邦題の『ナチュラルウーマン』は、そういった意味で、キャロル・キング作、アレサ・フランクリン歌唱の同名曲が本作に流れるエピソードと呼応するのではないだろうか。
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■『ナチュラルウーマン』
配給:アルバトロス・フィルム
2月24日(土)、シネスイッチ銀座、新宿シネマカリテ、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国公開