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映画『ナチュラルウーマン』 が描くトランス女性像 メディアで特異に扱われる人々も普通に生きている

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マイノリティを他者化する視線に揺れる自己像

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©2017 ASESORIAS Y PRODUCCIONES FABULA LIMITADA; PARTICIPANT PANAMERICA, LCC; KOMPLIZEN FILM GMBH; SETEMBRO CINE, SLU; AND LELIO Y MAZA LIMITADA

 わたしの友人のトランス女性から、ホルモン投与をする前には両親から大反対を受けていたけれど、縁を切る覚悟で踏み切ったところ、だんだん女性的になっていく子を前に応援するようになっていった、という話を以前聞いた。これは、性別移行前には(ホルモン投与の健康面での身体への影響含め)どういうものかわからないから、ではないだろうか。しかし、実際変わっていく様子を目にし、その様子が「化け物」などという想像の産物ではなく健やかなものであれば、受け入れられる可能性は上がるとおもう。『女子的生活』の第3話の、父親からの「みき」という女性名の呼びかけにはそういう意味が込められているとおもったし、起こりうるリアリティが感じられた。

 しかし、とは言っても、既存の「女性らしさ」に(例えば声、肩幅、胸のつくりなど、部分的にであれ)当てはまらない造形であると、「異様」と見なし、同化することを奨励する向きもある。これは悪意があってではなく、「その方がいいとおもって」という場合も少なくないから厄介だ。髪の毛が短いより長い方が、醜いより美しい方が、胸が小さいより大きい方が、トランス女性にとって良いことだろうとアドバイスしてくる人はいる。時に美容整形を薦める人だっている。しかし、本来はその人の造形がゴツゴツと骨ばって見える、いわゆる「男らしい」様相でも(これはシスジェンダーの女性から「顔が男っぽい」という劣等感として聞くこともある)、その人自身がこの社会で女性として生きることを望んでいるのであれば、他人がとやかく言うものではないだろう。

 そういう点から見ると、『女子的生活』のみきが、最終回で髪をバッサリ切ったのは痛快だったし、また「その先」が見たくなるような見事な終わり方だった。

 一方、『ナチュラルウーマン』では、「らしさ」の揺らぎとして鏡像が随所に散りばめられている。鏡像は、特にトランスジェンダーが晒されやすい、自己像と他者からの認知のズレをあらわしているのだろう。先述の、オルランドの元妻や息子らからのマリーナに対する決めつけは、その一例だ。ある者は「彼女」と呼び、ある者は「彼」と呼ぶ。「マリッサ」と誤った名前で呼び続ける者もいる。他称によって、ときにそのズレがアイデンティティを引き裂くような痛みを生むだろう状態が、鏡像という表現で示唆されている。

 しかし、このモチーフについても、マイノリティの肯定として効果的に働くエピソードが見事なかたちで用意されていて、静かに心揺さぶられる。

映画、テレビドラマにおけるトランスジェンダー女性たち

 2000年代には、『トランスアメリカ』『リリーのすべて』といった、トランス女性が中心となる映画作品が発表され、それぞれ主演俳優がアカデミー賞の候補、受賞に至っているけれど、シスジェンダーだった。志尊淳が『女子的生活』に主演すると発表されたとき、トランス女性の当事者らから「(黒人を白人が演じないように)トランスジェンダー役を当事者になぜ演じさせないのか」というクレームが湧いた。そうした問題提起も重要だが、日本ではそもそも、演技訓練の積まれたトランスジェンダーの俳優が圧倒的に少ないことや、そうした人々が描かれる機会自体が少ないという、いくつかの問題が重なっているのだと推測する。

 近年は、『ナチュラルウーマン』のダニエラ・ヴェガだけでなく、映画『タンジェリン』のキタナ・キキ・ロドリゲス、マイア・テイラーや、先述のOITNBのソフィアを演じているラヴァーン・コックスといった、トランスジェンダー女性が「普通に」俳優として起用され、評価されているのは変化の兆しと言える。また、Amazonプライムのオリジナルドラマシリーズ『トランスペアレント』では、メインキャラクターの、3人の子どもを育てて老年になって性別移行をするトランス女性を演じるジェフリー・タンバー(シーズン4までで降板)はシスジェンダー男性だが、その性別移行に伴って周りに増えていくトランス女性/男性らの役には当事者が起用されている。

 また、Netflixのドラマシリーズ『センス8』を作ったラナ、リリーのウォシャウスキー姉妹は、かつてラリー、アンディの兄弟として『マトリックス』シリーズを手掛けており、トランスジェンダーのクリエイターがメインストリームに現れつつある。ちなみにこの想像力豊かなSF作品には、様々な国籍、人種、ジェンダーの人々がメインキャラクターと出ており、中でもトランス女性のジェイミー・クライトンの配役も目を引いた。

 『タンジェリン』は、ショーン・ベイカー監督やプロデューサーが入念にリサーチを行い、出演もしているトランス女性らとコミュニケーションを重ねて、トランスジェンダーにとどまらない多層的なアイデンティティにふれられる傑作として作り上げられた。これまで映画やテレビドラマなどで極端に誇張された特殊な存在として扱われがちだったトランスジェンダー像として見るのではなく、シスジェンダーと変わりない存在として向き合おうとすれば、当事者でなければふれてはいけないということにはならないはず。また、トランスジェンダーがシスジェンダー同様のありふれた存在であることをメディアが伝えたり、あるいは作り手や出演者としてメディアに関わるきっかけが一般的になれば、より豊かな視座の含まれた作品が生まれるのではないだろうか、ということも考える。

 トランスジェンダーである個人が自認する性への他人からの尊重をめぐる葛藤や軋轢と、シス/ヘテロである人と同様にこの世界にただ「普通に」生きる存在であるという示唆、が本作のテーマのひとつだ。しかし、主演のダニエラ・ヴェガ来日を報じた日刊スポーツの記事では〈心と体の性が異なるトランスジェンダーであることを公表しているヴェガが、同じ境遇の男性を演じた〉と、トランス女性を「男性」と名指してしまっており、まさに本作に登場するマリーナを「男」と見なす視線と同質になってしまっている。

 こうしたトランスジェンダーの尊厳を損ないかねない出来事や言動や表現に、当事者がいちいち指摘するのには骨が折れる。その点では、『女子的生活』は、みきへの偏見について同居人の後藤が異議申し立てをする役割を担う、というエピソードが画期的だった。後藤は、みきに対して無知な言動をぶつけてしまうこともあるけれど、すれ違う経験から学ぶことのできる人物として描かれている。

コミュニケーション可能なナチュラルな存在としてのトランス女性

 『ナチュラルウーマン』でも、シス/ヘテロが「当たり前」だと信じられている人々がトランスジェンダーを「特殊な存在」と見なし、差別や偏見を向ける一方で、マリーナの働くカフェのオーナーだろう女性が普通に接している様子も描かれている。また、オルランドの弟・ガブリエル(ガボ)はマリーナがトランスジェンダー女性だとわかっても、ソニアやブルーノとは同調せず、「彼女」と呼び続ける。マイノリティを他者化し、決めつけるような姿勢ではなく、一個人として付き合いができるという点で、『女子的生活』の後藤とも重なるところだ。

 『ナチュラルウーマン』の監督はシスジェンダーだろうけど、トランスジェンダーのダニエラ・ヴェガと共に作られ、ヴェガの存在なくして成立しないと言える。そのすばらしさは特異性(fantastic)でもあるけれど、他者化せず、性別や人種が同じだろうが近かろうが差異はあって当然で、そうした普通に存在するもの(natural)としてコミュニケーションが取れればという可能性を豊かに示唆している。

 本稿で、わたしはマリーナを「トランスジェンダー」と説明してきたけれど、映画の中でマリーナがそう自称したことは一度もない。つまり、この映画は厳密には「トランスジェンダーを描いた作品」というより、そういう属性を持つ個人がただそこに存在するだけで、周りから不当に名指されたり、あるいは当たり前のように尊重される様子が描かれているだけ、とも言える。邦題の『ナチュラルウーマン』は、そういった意味で、キャロル・キング作、アレサ・フランクリン歌唱の同名曲が本作に流れるエピソードと呼応するのではないだろうか。

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■『ナチュラルウーマン』
配給:アルバトロス・フィルム
2月24日(土)、シネスイッチ銀座、新宿シネマカリテ、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国公開

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