妄想食堂「蒸し牡蠣を愛し、カキフライに怒り狂いし私」

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 私は牡蠣を愛している。あの無骨な雲母のごとき貝殻と、その中に鎮座する慎ましくもなまなましい乳白色を思い浮かべるだけで身悶えしてしまう。宮城に生まれ、舌の肥えた母親に育てられた私は小さなときからおいしい牡蠣の味を知っていた。小学校に上がるあたりには愛知に引っ越してしまったが、毎年寒くなると松島から牡蠣が箱いっぱいに届くのが恒例で、つまり私にとって冬というのは昔から牡蠣の季節にほかならなかったのだ。

 実家の台所で蒸し焼きにした牡蠣たちが、部屋中に海の匂いをふくふくと立ち込めさせるのがうれしい。へらを使って殻をこじ開け、貝柱を剥がす。レモンを惜しげもなく絞り、熱いうちに口の中へ引きずり込む。上等な海水と生き物の内臓が放つ、濃厚で複雑な旨味。一息に襲いかかってくるそれにおろおろしているうちに身はあっけなく喉を通り抜け、後からじんわりと広がっていく甘味に呆然としそうになるが、すぐさま追いかけるように殻に口をつけ、溜まった塩汁(ここに日本酒など入れてもよい)を啜る。濃い塩味と柑橘の酸味できゅっと締まった舌により旨味がいっそう深く染み入り、今度こそ本当に呆然として、口の中をふよふよと柔らかく漂う滋味にうっとりする。ひとつ、ふたつと喉に滑り込ませるたびに目が爛々と輝いてくる。あの食べ物のことを表すために「海のミルク」という言葉が用意されているけれども、海に乳房があったなら、まさにこんな味わいと滋養の汁を絞り出しただろう。

 私は牡蠣を愛している。生の牡蠣。蒸した牡蠣。焼いた牡蠣。だけど、フライやグラタンなどに料理したものは——好きではない。好きではないどころか、一時期は飲食店のメニューや看板にその文字を見つけただけでも激しくむかついてくるくらいだった。油の滲んだ衣。酸っぱい卵のタルタルソース。煮詰めた牛のお乳。あの複雑な味わいを湛えた牡蠣の上に、ごてごてとした風味をまとわりつかせることが許しがたかった。意味がわからない。牡蠣は裸のまま味わうのが一番おいしいに決まっている。

 しかしそんなことを言っていたら、海のない県出身の知人から「それは新鮮な魚介類を手に入れることができる者の驕りである」と厳しく叱責された。「フライにしないと食べられない牡蠣だってあるんだぞ」。自分がたまたま新鮮な牡蠣を食べられる環境にいただけであって、それが非常に恵まれたことだという事実を、このとき初めて認識したのだった。私は視野が狭すぎたし、視野が狭いということは自分のいる場所以外に目を向けようとしなかったということで、それはつまり傲慢だったということだ。

 蒸したり生のまま啜ったりするのに向いた牡蠣があるように、フライやグラタンになることに向いた牡蠣だってある。これはある意味では「なるしかなかった」のかもしれないけれど、同時にフライやグラタンに「なることによって生かされている」牡蠣ということでもあるはずだ。そのことを認めないのは「素のまま食べられない牡蠣はもはや牡蠣ではない」と言っているのに等しい。だけどみんな牡蠣は牡蠣で、それぞれの落ち着きどころが違っているというだけだったのだ。

 やっぱり私は素のままで食べる牡蠣が一番好きだけれども、それは私の好きなものであって、何かに比べて優れたものでも、絶対的に正しいものでもない。ある牡蠣にとっての落ち着きどころがそこだっただけだ。カキフライも牡蠣グラタンも、きっとほかの誰かの一番で(一番じゃなくてもいい)、ある牡蠣にとっての落ち着ける居場所なのだと思う。蒸し牡蠣派も生牡蠣派もフライ派もグラタン派も、みんな適度に認め合って食卓を囲めたらいい。その準備が、今の私にはちょっとだけできている。

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