連載

不健康でなにが悪い! フェミニズムにおける健康信仰

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世紀末の病弱崇拝、でも…

 この違和感がもっとはっきりしたのは、大学院に入ってオスカー・ワイルドなどを学ぶようになり、カリフォルニア大学サンディエゴ校で教えていたブラム・ダイクストラの『倒錯の偶像――世紀末幻想としての女性悪』を読んだ時です。既に一度この連載に登場していますが、『倒錯の偶像』は世紀末文化のミソジニーを批判した大著です。この本の第2章はそのものずばり「病弱崇拝、オフィーリアと愚行、死女と物神化する眠り」というタイトルで、世紀末の病弱崇拝がいかに女性を貶めるものだったかということを書いています。ダイクストラは19世紀頃の、弱く病気がちであることこそ女性らしさだと考え、女性の活動を否定する傾向をこのようにまとめています。

当時の神話においては以前にも増して、標準的な健康状態さえもが――女性の「人並み外れた」肉体的活力はいうに及ばず――危険な男性化を示す態度と結びつけて考えられ始めていたのだ。健康な女性は「不自然な」女性になりかねないと、しばしば考えられた。人間の天使がいるとすればそれは、虚弱で、無力で、病気であるというわけだった(p. 63)。

 この章に入っている、『ハムレット』の登場人物で溺死するオフィーリアの表象に対する批判的分析などは、頷けるところも多いものです。16世紀のイングランドでは水の事故が非常に多く、シェイクスピアが『ハムレット』を書いた時代には溺死体の悲惨さを実際に目で見て知っていたり、家族や友人を水難で失ったような観客もけっこういたはずです。ジョン・エヴァレット・ミレイの「オフィーリア」(1852)に代表される、花々と水に囲まれて死んでいく美しい乙女というイメージは非常に19世紀的なもので、たぶん『ハムレット』初演時の観客にとってのオフィーリアの死は、生前は清らかで美しかった女性が大変恐ろしい死を遂げたというイメージだった可能性のほうが高いだろうと思います。

 ミレイにかぎらず、この時期に活躍したラファエル前派の画家は病気や障害を理想化する傾向がありました。たとえばバーミンガム美術館では、ラファエル前派を中心に、盲目の少女や自殺した若者などを描いた絵画について、いかにこうした表現が実体を反映していないか解説するパネル企画などを行っています。

 しかしながら、ダイクストラがオフィーリア表象に関する箇所で、世紀転換期のフランスの大女優サラ・ベルナールをとりあげているところはかなり引っかかりました。ダイクストラは、ベルナールについて「若い頃には、病弱崇拝と結核性虚弱の特徴である羸痩と末期的病状のあらゆる徴候を示し、咳き込んで血を吐くほどであり、十五歳のときには、あと数年しか生きられないと言い渡されていた」と述べ、「劇的効果を感覚的に知っていた彼女は、明らかに、若い頃に特有の病気(中略)のなかに最初の吐け口を見いだしたのだ」(p. 95)と、病弱さがその後の舞台のキャリアにつながったことを指摘しています。

 このように、実際に病気がちだったが偉大なキャリアを築いた女性の生涯を、「世紀末の病弱崇拝」に結びつけるのは、ちょっと短絡的で、絵や彫刻と、生身の人間を同一視しているように聞こえるのではないでしょうか? ベルナールは生涯を通して病気や怪我に悩まされた人物で、晩年は怪我で片足を切断し、それでもなお兵士の慰問などの仕事をこなしていました。ろくに義肢も発達していない時代に椅子に乗って活動していたそうですが、このように病気や障害と付き合いつつ自分のやりたいことをやり、病弱さだろうがなんだろうが使えるものを全て自己表現につぎ込む人物は、フェミニストの尊敬を受けるにふさわしいのではと思います。健康でも完璧でもない身体を持っていても堂々としているベルナールは、私の憧れの女性のひとりです。

不健康で上等

 私が健康崇拝を警戒しているのは、健康を美の理想としたり、健康でスポーティな女性のイメージこそポジティヴだと考えたりすることが、病気や障害を持った体を醜く怪物的だと思うことにつながってしまうのではないかと危惧しているからです。障害を持った人や、トランスジェンダーの人の体は、しばしば不健康で醜いものとして排除されてきました。それどころか、歴史的には月経や出産などの機能を有する女性の体じたいが汚れているとか、怪物的であるとか、完全ではないと軽蔑されてきたこともあるのです。

 健康というのは多分に社会的なもので、誰が健康か、誰が健康でないかは保険のシステムとか、住んでいる地域とか、労働環境とか、さまざまな要因に影響を受けて決められます。フェミニズムはこうした、社会に要請されるデフォルト状態としての「健康」に入れてはもらえない人々が、不健康なままで参加できるものであったほうがいいし、歴史的にフェミニズムを作ってきたのはとても健康とは言えないような人たちだったということは意識していいのではないかと思います。弱い女性こそ美しいという理想を広めるのも、健康な女性こそが美しいという理想を広めるのも、私には同じコインの裏表に見えます。美しさにはいろいろあって当たり前です。不健康上等で生きていくのも大事だと思います。

参考文献

ブラム・ダイクストラ『倒錯の偶像-世紀末幻想としての女性悪』富士川義之他訳(パピルス、1994)。
スーザン・ファルーディ『バックラッシュ-逆襲される女たち』伊藤由紀子、加藤真樹子訳(新潮社、1994)。
ヘレン・フィールディング『ブリジット・ジョーンズの日記』亀井よし子訳(ソニーマガジンズ、2001)。

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北村紗衣

北海道士別市出身。東京大学で学士号・修士号取得後、キングズ・カレッジ・ロンドンでPhDを取得。武蔵大学人文学部英語英米文化学科専任講師。専門はシェイクスピア・舞台芸術史・フェミニスト批評。

twitter:@Cristoforou

ブログ:Commentarius Saevus

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