
(左)『臆病な詩人、街へ出る』(立東舎)、(右)『ハッピーエンドに殺されない』(青弓社)
3月8日、今年2月に出版された『臆病な詩人、街へ出る。』(立東舎)の刊行記念として、著者の文月悠光さんと、タレント・文筆家の牧村朝子さんによるトークベントが開催されました。当日の様子を全文文字起こし前後編にわけてお送りしています。
前編で、「臆病な詩人がどうやって形作られたのか知りたい」と語る牧村さんに、「学校行事で盛り上がれなかった」「自分よりも、他者の期待を優先してしまう」と応えながら、自身の「生きづらさ」を掘り下げていった文月さん。後編では、『臆病な詩人、街へ出る。』でも頻出していた「試される」をキーワードに、文月さんの「生きづらさ」の正体がより掘り下げられていきます。審査員のような他人から採点される世界で、牧村さんが出した自分なりの答えとは……。
前編:アンチ・モー娘。だった私と、アンチ・学校行事だった私。 文月悠光×牧村朝子
文月さんにとって、世界は「野郎ふんどし屋」
文月:まだ30分位しか経ってないのに、いろいろと剥がされてしまった感じがして。
牧村:興味があるから聞いてるんだよー。
文月:ありがとうございます。
牧村:『臆病な詩人、街へ出る。』を読んで、「誰がこんなに文月さんに加害したんだろう」って思ってしまったの。「試される」ってワードがめっちゃ出てくるんですよね。
文月:そうなんですよね。「試される」感情の正体は「緊張感」だなって思います。「臆病」って言葉でイメージすると「傷つくのが怖い」という印象だったんですが、エッセイを書きながら自分自身の臆病さを紐解いていったら、「他人に試されるのが怖いのでは」って気づきがあって。他人に自分の価値を測られている気がして、緊張してしまうんです。
牧村:でもその「試される」例として文月さんのエッセイに出てくる状況、私だったら「試される」とは思わないようなとこなのよね。だって、「八百屋で試される勇気」とかいうんだよ。いま笑いが起きてるけど、わかるって人もいると思うのね。アイドルオーディションもそうだよね。どこにいっても試されている気がしている。八百屋さんが客の何を試すのさ?
文月:なんだろう……。
牧村:「このきゅうりの熟成度が君に見抜けるか」みたいな?
文月:いかにも八百屋さんに来たことがありませんって風情で来て、お店の人が立ち働いているところに「すみません」って心許ない感じで入っていったら、邪魔にならないかな? 疎ましく思われるんじゃないかな? とかそういうことを考えちゃいますね。洋服屋さんでも素敵だなって思って入ったお店で、店員さんが目も合わせてくれないとヘコみませんか? 「こいつは買わない客だ」って判断されたんだって。
牧村:あははは(笑)。笑っている人と頷いてる人といるよね。八百屋さんはちょっと置いておいて、服屋さんでは試されているって感じる人もいるでしょうね。
文月:試されている感覚じゃなかったら、どういう感覚になるんですか?
牧村:八百屋だったら「あ、トマト安いな」って思う(笑)。
文月:普通ですね、普通の買い物客ですね。
牧村:「試されてる感じしません?」って文月さんが挙げた例の中で、一番「しません(笑)」と「ああ~(わかる)」と反応が割れたのは服屋だと思うんですけど。私は服屋で試されてるとは思わない方かな。店員さんがあまり構ってくれないし塩対応だったときは「あ、気楽だな」って思いますね。
文月:あ~なるほど。
牧村:構ってくれたら「あ、どうも」って思うし。どっちにしろ、「試されている」とは思わないかな。
今「試されている」って言葉で表現していることって、いいかえると「その場に馴染める人かどうか」だと思うんですよね。八百屋に来そうな感じの買い物客かどうか、ギャル服屋に来そうな感じのギャルか、みたいな話しているんでしょ? その場に馴染める人かどうか……っていう観点からするとわからなくもないかもしれない。たとえば「野郎ふんどし」みたいなのを売っているお店に私がひとりで行くとすると試されてる感じはするかも(笑)。
文月:はいはいはいはい、そんな感じです! 野郎ふんどし屋が八百屋なんです、私の。
牧村:世の中に存在する大体の場所が文月さんにとって野郎ふんどし屋なんですね、きっと(笑)。「私はこの場に呼ばれていない」と思う。
文月:そうそう。場違いな空気を自分が発してしまうのではないかと。自分が放射線でも撒き散らしているとか思っているのかな? 行った先で、私がいることで空気がふわっとこう……変な空気になるんじゃないか、浮いちゃうんじゃないかなとか、恐怖心があるのかもしれないですね。