妄想食堂「スーパーのお惣菜をカゴに放り込むように読まれる文章」

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 スーパーのカゴにお惣菜を放り込む。今日は余裕がない。ご飯を作るのにはさまざまなステップが必要で、手間がかかる。栄養や味付けのバランスを考えて、一から献立を組み立てる手間。食材を吟味して揃える手間。台所に立って、洗ったり刃を入れたり火を通したりの処理をする手間。スーパーで買える出来合いのお惣菜は、時間も気力もない私に代わって、色々なものを肩代わりしてくれる。

 私は以前、子育て中の人たちに向けたwebメディアで文章を作っていたことがある。そのときに繰り返し言われたのが「子育て中の人はとにかく余裕がない。だからできる限り“考える”ステップを省いてあげる書き方をしないといけない」ということだった。何かをよく考えることには時間も手間もかかる。だからなるべく単純に、解釈の余地を少なくすること。伝えたい情報までの最短距離で読み手を導くこと。読み手が頭を使う時間を可能な限り短くすること。

 実際、そこで一緒に働いていた子育て中のお母さんは「もう体力も気力もギリギリで、物事を考えたり疑ったりしていられない。ネットに書いてあることも何でもすぐ鵜呑みにしちゃう」と口にしていた。疲れた頭で、ネットに書かれた文章を読む。そうなんだー、と飲み込んでしまう。疲れた体で買った出来合いのお惣菜が、そのまま食卓に乗せられて、何の疑いもなく口に運ばれていくのと似ている。ワンステップかツーステップの単純なプロセスで身の内に収められて、その人の一部になってしまう。それって実はけっこう怖いことなんじゃないのかなぁと思った。

 私は“疑わない人”を恐れているのではない。差し出された情報を吟味することなく、素直に、愚直に飲み込んでしまう。それを考えなしだと責めるのは簡単だ。だけど便利さを追求することや、考える手間を省こうとすることは悪ではない。だってみんな余裕がないし、目の前に差し出されたものは信じたい。どうしたらそれを責められるだろう。私が恐怖を感じるのは、作り手の差し出したものが“疑われないこと”の方なのだ。

 知らない人が作った料理を食べることよりも、知らない人に自分が作った料理を食べさせることの方がよほど怖い。大学生のときに少しだけ飲食店のキッチンでアルバイトをしたこともあったけど、「自分が今この料理に何か良からぬものを混入したとしても、提供された側は疑いもせずそれを食べるのだろう」と考えては恐ろしい気持ちになっていた。ここが飲食物を提供する場所だというだけの理由で、私の作った料理はこんなにも信用されて、食べられてしまう。

 同じ恐怖はメディアで記事を作っていたときにも感じていたし、今こうして読み物を書いているときでもそれは変わらない。情報を発信する場所に身を置いているだけで、自分の書いた文章が読まれ、信用されてしまう。その“信用”が、受け手の余裕のなさからくるものであるならなおさらだ。便利なもの、わかりやすいものを作ろうとする人は、相手がなぜそれを必要としているのかを正しく認識して、その人たちのためにより多くのことを考えなければならないはずだ。お惣菜の作り手が肩代わりするのは、ただ調理をする手間だけではない。何をどのようにして食べるかを“考える”手間でもある。

 だから今日も、できるだけ多くのことを考えながらパソコンに向かう。考える手間を少しだけ肩代わりさせてくれる人たちのために、味わいやすく、飲み込みやすい文章を練ってはキーボードに打ち込んでいく。だけど今日の献立についてはもう考えられない。スーパーに出かけて、ぱっと目についたお惣菜をカゴに放り込む。レンジで温めて、疲れてぼんやりした頭で食べる。たぶんこんなふうに、みんなが誰かの手間を肩代わりしているのだ。そう考えると希望が持てるけど、でもやっぱりちょっと怖い。ひりひりとした緊張を感じながら、またパソコンに向かう。

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