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産まない女に居場所はなかった――「子安講」化する日本

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Thinkstock/Photo by masterzphotois

 少子化の原因はさまざま言われているが、産みたくない女性が素直に産まなくなった、ということが一番大きいのではないだろうか。子どもを持たずとも普通に生きていけるようになった以上、欲しくもないのに子どもを産んだり、育てたりする必要はない。かつてはその選択ができなかっただけだ。

歴史をひもとくと、共同体の一員として妊娠、出産を繰り返しながら生きることが女性の宿命だった。産めない女性には「石女(うまずめ)」というレッテルが貼られ、ペナルティを課せられた。こうした「石女」差別は、地域にもよるが戦前までは日本各地に見られた。

 不妊の原因が医学的に解明されるようになっても、「石女」は「前世で人を殺した」「先祖が生き物をたくさん殺した」などと言われ、その原因が本人や先祖の悪業にあるかのように責められた。

 また、「石女」は「家」にとって不都合な存在であるばかりでなく、村などの共同体にとっても「不幸の源」であり、「穢れた存在」だと見なされた。

 例えば岐阜のある地方では、「キオンナ(石女のこと)は穢れが強い」ため、道端で用を足すと「たちまち草木が枯れる」とし、その身体的特徴を「心臓に故障があり、猫背で眉が非常に薄いか、または無い者が多く、血色がきわめて悪く、青白い顔色、皮膚色をしている」と説いた。

岐阜の別の地方では、「石女」がその土地に住んでいるだけで、「穢れのために」神社の木が毎年一本ずつ枯れると言われていた。鳥取では各地で無月経の女性を「木女房」、子どものいない女性を「竹女房」と呼び、彼女たちがいると村が絶えると信じ、村から追い出していた。

 「石女」は子育てをしないことから「この世で楽をした」と見なされ、その報いとして死んだら地獄へ堕ちると説く地域も多く、岡山では、「石女はあの世に行って竹薮の竹の根を掘らなければならない」が、生前猫を可愛がっていると、その猫が手伝ってくれると言われていた。

 奈良のある地方では、「元来女には目に見えない12本の角がある。その角は子どもを1人産むごとに1本ずつ落ちていくのであって、12人産んで12本の角がなくなってしまえば善人となる。しかし石女は12本の角がすべて残っているので極楽には行けない」とされていた。12人産まないと善人になれないのであれば、現代の女性たちのほとんどが角の生えた悪人だということになる。

 日本各地に子安地蔵や子安観音、塩釜様などの信仰拠点があるのは、こうした時代の名残でもある。

 今も子どものいない女性に対し、口さがないことをいう人はいるが、共同体ぐるみの理不尽な差別はかなり薄らいだといえる。それが少子化に拍車を掛けているとしても、悪いことだとは思わない。

 個人的な話になるが、私の友人は15年ほど前に結婚し、姑から引き継ぐ形で嫌々「子安講」に参加していた。

 その地域では、 各家の「嫁」が果物や菓子を持って集まり、歓談するという形の「子安講」が定期的に開かれていた。「おかげさまで子どもを授かりました」と赤ん坊を連れて参加する若い母親もいたという。解散時には、「まだ子どもができない人」が残った果物や菓子を持ち帰る。それらにご利益があるという考えらしい。友人はいつも一手にそれを引き受ける羽目になるので、憂鬱で堪らないとこぼしていた。

 友人は結局子どもを持たなかった。最後に会ったとき、まだ「子安講」に参加しているのかと尋ねたら、「行きたくないから、姑に代わってもらった」と言っていた。本人でなくても「ご利益」はあるのだろうか? そんなに集まりたいのなら、「地域親睦会」とでも改称すればいいのに、と思った。

 政府が子産みを奨励し、定期的に「妊娠菌」が流行る日本は、国自体が「子安講」化しているのかもしれない。

引用・参考文献)『家と女性 暮らしの文化史』小学館、『日本産育習俗資料集成』第一法規出版

田中ひかる

1970年東京生まれ。著書に『月経と犯罪 女性犯罪論の真偽を問う』(批評社)、『「オバサン」はなぜ嫌われるか』(集英社新書)、『生理用品の社会史 タブーから一大ビジネスへ』(ミネルヴァ書房)、『「毒婦」 和歌山カレー事件20年目の真実』(ビジネス社)など。

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