反射神経の「下ネタ」ではなく、ゆっくりと「性」について語る場所が私たちには必要だ

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 今月14日からスタートした特集「性を語ること」。本稿ではライター・餅井アンナさんに、「性癖」をテーマにご執筆をいただきました。笑い話や下ネタで消費されてしまう自分の性癖は「異常」なものなのでは、という不安を抱いてきた餅井さんが、「性」へのコンプレックスを受け入れるきっかけとなったのは、ある大学での授業でした。

特集「性を語ること」

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 自分の性欲が「正しい」ものではないという気持ちに、長いこと苛まれてきました。

 wezzyでの連載「妄想食堂」でも書いているように、私は食というものに対して性的な意識を持っています。人と食事をするのに興奮する。食べ物をパートナーや自分の体に塗りたくって食べたりするのが好き。言ってしまえばフェティシズムの一種なのですが、他にも痛かったり苦しかったりするのが好きというマゾヒズム的性質があったり、人間以外、とりわけ人工物に興奮する癖があったりと色々と抱えているものがあります。

 自分の性欲は過剰で捻れているのではないか。そうした意識は幼い頃から自分の胸にありました。性の目覚めはばいきんまんの手で餅まみれにされるアンパンマンだったし、セーラー戦士たちが敵の攻撃に苦悶する姿には今でも興奮します。小学生のときには性への興味がより強固で明確なものとなり、父親の本棚からエッチな漫画を選定しては盗み読みする、インターネットを使ってエッチなサイトにアクセスしまくるという行為を繰り返していました。それに気がついた両親は、もちろん私を厳しく叱責します。それでも性的なものへの興味と執着を捨てることができなかった私は、自分の性欲がいびつで汚い、恥ずべきものなのだという意識を強くしました。

 性的な事柄について誰かと真剣に話すことに、私は失敗し続けてきました。小学校高学年で性教育が始まってから中学・高校に至るまで、周囲の人たちが話題にする「性」はきまってセックスが中心になったものでした。だけど私が興奮するのは、セックスではない気がする。自分の性癖が周囲とは違っているということに引け目を感じていた私は、それを「おもしろい、何か異質なもの」として笑い話にすることしかできませんでした。つまり場を盛り上げるための「下ネタ」として消費していたということです。

 周りの人たちに「変態ネタ」で笑ってもらった後に帰宅すると、しばしば「これでみんな笑うってことは、やっぱり自分は変なんだな」「こんなふうに話していいことじゃなかったのに」と落ち込みました。自分の内面に関わる事柄をその場限りの表面的なネタとして話すというのは、駄洒落や大喜利のように、自分の気持ちとは関係ないところで言葉だけが上滑りしていく感じがします。本当に悩んでいることは口に出せず、「自分はおかしいんだ」という認識だけが深まっていきました。

「変態な自分でもうまく編集すれば受け入れてもらえる」

 自分の捻れた性欲をひとりでうじうじと責めてはつらい気持ちを高めていた私でしたが、大学に入って以降、少しずつ開き直れるようになってきました。そのひとつのきっかけとなったのが、大学で受けた、ライターのトミヤマユキコ先生による「編集実践」という授業です。履修した学生が「自分が好きなもの」を題材に8ページほどのZINE(自主制作雑誌)を作る演習だったのですが、授業の最初にトミヤマ先生がおっしゃっていたのが「普段はいい子にして隠しているマイナーな自分・変態な自分を出せ」というようなことでした。

 私はそこで、「食と性」についての雑誌を作ることにしました。自分の変態な部分を受け入れてもらうためにはどうすればいいのか。物事を人に伝えるためには、自分がその内容を深く理解していなければいけません。好きなものについて誰かに伝えたいと思うのなら、それのどこに惹かれていて、どのように魅力的だと思うのかを丁寧に分解し、再構築する必要があります。それを口頭で発表し、学生や先生からさまざまな意見をもらい、試行錯誤しながら一冊の雑誌に仕上げる。ページ数は少なくても、時間と手間がかかる作業です。

 自分が感じている食べ物のエロさをわかってもらうためには、文体もねっとりしていた方がいい。文章だけだと重たいから、きれいな写真も入れたい。読む人を傷つける内容になっていないか。傷つけるとしたら、それはどういうところでだろう。そもそも自分はどんなふうに食べ物をエロいと思っているのか。その理由やきっかけはどういうもので、それを書くことで自分はどうなりたいのか。この演習は、長らくコンプレックスだった性癖と時間をかけて向き合うとても良い機会でした。

 自分が本当に思っていることを、おもしろく、でも真剣に書いた「性」の話を読んでもらうというのは不思議な経験です。自分が時間をかけて作ったものを、相手も時間をかけて読んでくれる。「おもしろい」「認識が変わった」と言ってくれる人もたくさんいました。「下ネタ」として喋っていたときに要求されていた(と思っていた)盛り上がりや速度ではなく、深度や丁寧さといった尺度で話を聞いてもらえている。そんな気がして、とても満たされた心地になったのを覚えています。こちらのインタビュー記事にもあるように、「編集実践」の教室は、履修した学生に「変態な自分でも、うまく編集すれば受け入れてもらえる」という実感を与えてくれるものでした。その体験を経たことで、私の「性」に関するコンプレックスは少しずつ薄れていったのだと思います。

反射神経で「性」を語ろうとすると、使い古された概念でしか受け答えができない

 「性」の話題は繊細で入り組んでいます。いわゆるエロだけではなく、ジェンダーやセクシュアリティ、人それぞれ好みやあり方は違っている。それを心のうちで正確に捉えることも、適切な形で言語化することも、それを伝え、受け取ることも、すべてが難しく、知識と根気、そして時間が必要なものです。だけど私たちが「性」、とりわけエロの領域について真剣に語ることは、なぜだか世の中に歓迎されていません。わかりやすく過剰な「下ネタ」ばかりがあふれています。もちろん、安直な下ネタとして処理する人々のすべてが、実際にそのような捉え方をしているわけでもないと思います。心の中では真面目な性の話題であると受け止めてくれていても、その場の空気が真剣に応えることを求めていない場合、なんとなく表面的な消費をする態度を取ってしまうことがある。私自身もそうだったなと感じています。

 反射神経を使って会話を回そうとすると、すでに頭の中にインプットされ、使い古された概念でしか受け答えができなくなる。そんな気がします。たとえば「男と女は愛し合ったらセックスをするものだ」、「セックスは男性器と女性器を使ってするものだ」といった固定概念。速度とわかりやすさを優先したお喋りの場では、そこから外れたさまざまな性の形は「正しくないもの」「異質なもの」として取りこぼされてしまいます。

 「性」の話を「下ネタ」として処理しているうちは、取りこぼされたそれらを一つ一つ拾い上げ、丹念に確かめるだけの時間を持つことは難しい。だからこそ「下ネタ」ではない「性」をゆっくりと語り合う場所が、私たちには必要なのだと思います。

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