BLは愛と性を再構築する 「どうして男女じゃダメなんですか?」というヘテロセクシズム

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 今月14日からスタートした特集「性を語ること」。本稿では、巣矢倫理子さんに「BL(ボーイズラブ)」をテーマにご執筆いただきました。

 BLは近年、マーケット規模の拡大だけでなく、批評、評論、そして学術書など、広く世の中に知られ浸透しつつあります。その一方で、誤解や偏見に基づいた批判も未だ少なくなく、「ヘテロセクシズム(異性愛主義)」を感じさせるものも中にはあります。BL愛読者がしばしば問いただされる「どうして男女じゃダメなんですか?」と疑問に対する巣矢倫理子さんの返答です。

特集「性を語ること」

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「どうして男女じゃダメなんですか?」

 私がボーイズラブ=BL愛好者だと話すと、そう問い詰められた。その人は本気で、「どうして男女のラブストーリーではだめなのか」を不思議がっていた。質問を受けた当時はしっくりくる答えを出せずにいたのだが、今ならわかる。素朴な「どうして男女じゃダメなの」という圧迫こそ、私の打破すべき相手であると。

 BLを読む理由を問う行為には暴力性がある。男女の恋愛漫画を読む人に「どうして同性愛じゃダメなの」と尋ねる人はほとんどいない。「普通」の恋愛は「男女」でしょ、という世間の風潮はあまりにも強固だ。「普通」が設定されることで自動的に「異常」が作られ、後者が排除されていく。意識の有無にかかわらず、異性愛以外のセクシュアリティを持つ人を差別する思想を、ヘテロセクシズム(異性愛主義)と言う。

 漫画家のよしながふみは著作『きのう何食べた?』(講談社)について、BL研究の第一人者である溝口彰子と以下のように語り合っている。

よしなが 『何食べ』についての取材をお受けすると、「どうして男同士のカップルにしたんですか?」とすごくよく聞かれるんです。「どうして」と言われても最初からこれしか、というのが正直な答えですが(笑)。(中略)結婚している男女の、子供のいないカップルとは全く立ち位置が違います。相手の親とも、結婚した男女だったら最初から関係が発生しますし。社会的な認知も違うから、妻がいます夫がいますっていうことを周囲にすぐ言うでしょうし。「BL脳」の方は、これ、男女じゃ同じ話にならないってすぐわかってくださるんですが、そうじゃない方々は、「男女でもできますよね」っておっしゃる。(中略)

溝口 「BL脳」って言うと、BLにうとい方たちは、「美男カップルに萌える脳みそでしょ」とだけ思うのかもしれませんが、その実、異性愛と同性愛のダイナミクスの違いを敏感に認識している、っていうことなんですよね。

(溝口彰子『BL進化論[対話編]』、宙出版、2017年。315317ページ)

 『きのう何食べた?』は40代の弁護士である「シロさん」と、そのパートナーの美容師「ケンジ」を主人公に、彼らの食と生活が描かれていく作品だ。同作は青年誌で連載されており、いわゆる「BL」ではないが、引用部分にある通り主人公がゲイカップルであることが肝となっている作品である。

 まだうまく息子のセクシュアリティを受け入れられていない老親とともに台所に立つ日もあれば、カミングアウトしていない職場で「女性と付き合っている」という設定を貫きながらレストランのテーブルを囲む日もある。彼らは社会の抑圧をたびたび苦い形で体験し、それらとある程度折り合いをつけ、対話しながら暮らしている。明らかにキャラクターの性別を取り替えると成り立たない内容だが、非「BL脳」の人は「男女でも成立する」と認識する場合が多いのだという。

 この感性の根源には、強固に内面化された異性愛規範があるように思えてならない。「ダイナミクスの違い」を察知できない非「BL脳」の人は、「カップルとは普通、男と女である」という発想を疑っておらず、ゲイカップルの生活に対して全くピンときていないように見える。そういう人にとって漫画の主人公にゲイカップルを選ぶことは「あえての定石はずし」でしかない。問いの根源にあるのは、「なんで『普通』にできるものを『はずし』てみたんですか?」という、珍しい手を見た囲碁ファンのような素朴さなのだ。

 「普通」と「普通でない」の分類を無自覚・無批判に構築しているがゆえに、「普通でない」ことには理由があると思い込んでいる(社会的に構築される「異性愛」についてはこちらの記事も併読してほしい)。この観点からすれば「男が男とセックスをする漫画を読む人」は「男と女がセックスする漫画をなんらかの理由で読まない人」になってしまうし、もっと言えば「なんらかの理由で実際のセックスの代わりに漫画を読んでいる人」になりかねない。「男」への欲求、「女」への欲求、現実への欲求、漫画への欲求。これらはみなそれぞれ独立した場所に存在し、対極に位置するものでも裏表の関係にあるわけでもない。今までの社会が「男と女のカップルによる現実のセックス」を特権化してきたために、それ以外の多様な性のありさまは周縁化され続けてきたのだ。

 異性愛規範は家父長制とぴったりくっついて近代を支配し、あらゆる人を抑圧してきた。女は男と結婚し、仕事を辞めて家庭に入り、セックスをして子供を産み、家事と育児に専念するべし……その手の発想は今でも強固に残っている。

 北田暁大・解体研編著『社会にとって趣味とは何か』(河出書房新社)には、ある興味深い調査が掲載されている。要約すると「二次創作を好むオタク女性」は、男性や非オタク女性よりも「性別による役割分業に抵抗を感じている」というのだ(詳細はぜひ本で確認してほしい)。

 「二次創作を好むオタク女性」全員がBL読者であるわけではもちろんないが、「腐女子たちは、そうした標準世帯モデルのもとで「ささやかな幸せ」というオブラートに包まれた家父長制が前提とする役割分業に懐疑的な立場を持っている」という指摘は無視できない。

 社会に生きている限り、社会の異性愛規範から完全に逃れることは困難である。異性愛規範に苦しむ人が現実を相対化する癒しを求める時、異性愛規範の外側を描いた作品が選ばれるのは必然と言ってもいいだろう(※1)。

 だからこそ、BL=基本的に女性が排除されたフィクション=の読者の大半は、家父長制の抑圧を最大限に受ける立場にある「女性」であった。溝口彰子がBLを「現実逃避が約束されたジャンル」だと言ったのはあまりにも的確だ。この場合の「現実逃避」とは逃避する側が無責任だという意味ではもちろんない。異性愛規範や家父長制で組み上げられた現実が、それらに抵抗する人を追いかけ続けること自体の酷さを指摘しているのである。

 最初の問いに戻ろう。「どうして男女じゃダメなんですか?」……私はその問いがあるからBLを読む。望まない圧迫から魂だけでも逃げる。BLは間違いなく、愛の意味、性の意味を再構築する場所なのだ。あらゆる方角から責めてくる社会の詰問に、BLはそっと問いを跳ね返す。「どうして男女じゃなきゃダメなんですか?」

1)一方で異性愛規範を揺さぶり批判するBL作品以上に異性愛規範を内面化したBL作品が多いこともまた事実である。異性愛主義への反発と内面化の狭間で苦しむ人々が形成するジャンルであった経緯によるものかと思うが、現実のゲイと表象が合致している以上、批判は免れない。この問題の詳細は溝口彰子著『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』を参照してほしい

参考文献

溝口彰子著『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』太田出版、2015
北田暁大+解体研編著『社会にとって趣味とは何か』河出書房新社、2017
溝口彰子著『BL進化論[対話編]』宙出版、2017

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