連載

アラーキーのファンだった、と過去形で語れるか

【この記事のキーワード】
アラーキーのファンだった、と過去形で語れるかの画像1

トランス男子のフェミな日常/遠藤まめた

 写真家のアラーキーが好きで、写真集もいくつか持っている。先日、彼の長年のミューズと呼ばれたモデルのKaoRiさんが「#metoo」の声を上げたが、彼女がモデルの作品も好きだった。KaoRiさんに続けて声を上げた女優の水原希子さんを映したアラーキーの写真も、こんなに素晴らしい女性がいるんだろうかと思うくらいには魅力的に思えてしまう。

 でも、自分が好きだと思う作品がだれかの性的な傷つきによって出来ていたと思うと、やっぱり衝撃を受ける。正直、これまで自分が性暴力の加害者になる可能性なんて考えたことがなかった。#metooのいくつかの告発についても、ひどいなと思うけれど自分の体験を問われるようなことはほとんどなかった。自分はセクハラなんてしないし、合意のない性行為だって無関係の人間だ。そう思っていたけど、ちがったみたい。

 さらに、こんなことは、はじめてアラーキーの写真を手に取った高校生の頃からうっすら分かっていたような気もする。無数の女たちの裸を撮って、私写真と称して本人の意図しない瞬間まで発表する。そのやり方に暴力性がないわけがなかったし、写真に呪われて、印刷した紙の中にとじこめられて、たくさんの人が嘘にされていくプロセスこそが、彼の作品の魅力だった。その作風自体、ジャンル自体がもう成り立たないのだという問題提起が現在なされている。きっと、それは受けいれるべき事実なのだろう。

 高校生の頃、予備校の帰りに書店のコーナーに何度も足を運んでは、ビニールカバーのついていないアラーキーの作品を眺めるのが好きだった。学校の図書館にいれてもらえるのは猫を映した『愛しのチロ』(平凡社)程度。妻との結婚から別れを描いた『センチメンタルな旅・冬の旅』(新潮社)は結局お小遣いで買った。

 こういうことを回想するにつけ、自分が慣れ親しんだアニメなり漫画なりを暴力の視点から見直すことは、それなりの痛みを引き起こすものだなということは実感する。ちょっと前に、「子どもの頃に大笑いして見ていた『保毛尾田保毛男』が今になって誰かを傷つけていたと言われるなんて、きれいだと思って眺めていたお花畑を機銃掃射されるみたい」と述べている人のインタビューが朝日新聞の記者によって書かれていたが(この記事自体には反吐が出た)、その人が主張する「向き合うしんどさ」だけは、自分もわかるなぁと思う部分はある。そして、ファンにそんな思いをさせないことがクリエイターの役割だとも改めて思う。

 もっぱらの悩みは、家にあるアラーキーの写真集をどうするかだ。前と同じようには見られない。だけど、ファンだった、と過去形にするのもなんだか自分に嘘をついているような気がしてしまう。世界中の彼のファンが同じようにモヤモヤすべし、というのが告発を受けての誠実なリアクションとも思えるが、さてはて、どうしようか、これ。

遠藤まめた

1987年生まれ、横浜育ち。トランスジェンダー当事者としての自らの体験をもとに10代後半よりLGBT(セクシュアルマイノリィ)をテーマに啓発活動をはじめる。主にLGBTの若者支援や自殺予防に関わる。著書に「先生と親のためのLGBTガイド 〜もしあなたがカミングアウトされたなら」(合同出版)ほか。

twitter:@mameta227

サイト:バラバラに、ともに。遠藤まめたのホームページ

「いいね!」「フォロー」をクリックすると、SNSのタイムラインで最新記事が確認できます。