マツコ・デラックスは女人禁制の土俵に上がれるのか? 大相撲、後付の伝統と言い訳

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(C)オカヂマカオリ

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「女性の方は土俵から降りてください」

 2018年4月4日、土俵上で倒れた舞鶴市長に救命措置を施している女性医療関係者に対してアナウンスがなされたことが物議を醸した(その後協会は謝罪)。

「女の子は遠慮して欲しい」

 その直後、4月8日には、春巡業の「ちびっこ相撲」の直前に日本相撲協会の荒磯親方(元幕内玉飛鳥)から電話で上記の連絡があったことが発覚。2015年の開始から毎年参加していた女児が参加できなかった。

 その後、芝田山広報部長(元横綱大乃国)が「女の子に一生残るような傷を負わせてはいけない。何か起きてからでは遅い」と議論の経緯を説明した。その理由づけ自体が、「女の子はきれいな顔でなければいけない」という一つの女性差別だということには気付かないらしい。

“女性は月経や出産がある”から土俵に上がれない?

 日本相撲協会公式サイト でも「女人禁制」についての言及はなく、すっきりしないまま論議が再燃している大相撲の女人禁制問題。4月19日には宝塚市の中川智子市長がスポーツ庁に土俵の女人禁制を見直す議論の開始を要望書を提出するなど、まだ議論は活発化しそうだ。

 「穢れているから」というのが、女性が土俵に上がれない大きな理由とされている。月経による出血があり、出産をする性だからだ。しかし「穢れ」を構成する要素として「体から外に出るもの(唾・精液・血・乳・胞衣など)」、「体の一部が分離したもの(皮膚、爪、髪、汗)」があるが、これらは男性だって出すものでもある。月経だけが「穢れ」なのだろうか?

 「褻(ケ=日常)枯れ」=「穢れ」とする説もあるが、現在は、英国の社会人類学者メアリー・ダグラスが唱えた「汚穢(dirt)の本質は無秩序(disorder)」が指針となっている。つまり、穢れとは“体系を乱すもの”なのだ。

 うがった見方かもしれないが、「体系を作り上げた側の秩序を乱すものはダメ」と言い張れば、勝手に禁忌を設けて結界を張れるということになる。俺ルール最強! 祭祀などは後づけで考えればOKだし。

明治時代に再び解禁された女相撲

 女相撲は、日本書紀にも出てくるほど長い歴史がある。太平洋戦争前まで全国巡業をするほど盛んだった。

 「江戸時代中期には定期的に相撲が興行されるようになった」(日本相撲協会公式サイトより)ということだが、徳川時代には、女性は千秋楽以外は観戦できなかった。しかし、女相撲は相変わらずあったし、明治になり、相撲人気低迷の救済策として女性の観覧も解禁された。

 だが、近代化を目指す明治政府は「女人禁制は封建的で遅れた慣行」であるとし、撤廃の布告を出す。比叡山などの霊山で千年来の女人禁制が徐々に解かれていく中、それよりもずーっと歴史が浅い相撲が、西洋化に逆張りする形で自らを「国技」としてブランディングしていったようだ。実際、「国技」は1909年、相撲常設館(両国国技館)建設時の案内文に使われていた言葉を流用して「国技館」として以降になのっているだけだ。厳粛どころか、客席が荒れることがしょっちゅうあったことも、徳川末期に書かれた風俗記『江戸繁昌記』などからうかがえる。リングネーム(四股名)を持つ巨大な体躯の異形の者同士が格闘し(それぞれの技に名前もある)、観客が熱狂するというのはまさにプロレス。これを「神事」という位置に“戻し”て生き残った大相撲は、見事に「策を講じた」と考えてもいいだろう。

「土俵は神事であり、こうした社会が1つくらいあってもよい」

 1990年に森山真弓内閣官房長官(当時)が、内閣総理大臣杯を土俵上で授与したいと希望した時の、二子山理事長(当時)のコメントだ。やはりすっきりしない。

 2000年、太田房江大阪府知事(当時)の、知事杯を土俵上で授与したいという申し出をきっかけに、検討会議が設けられた。そこで横綱審議委員会に初の女性委員・内館牧子氏が就任したのも「保守を守るための改革」という、まるでガス抜きのためのような理由だった。

 「現在の大相撲の禁忌もある時期に創り出された可能性が高い」(鈴木正崇著『女人禁制』吉川弘文館刊より)

女性に税金を払わせながら、“伝統”を無理やりつくる協会の愚行

 女人禁制を封建的とした明治からさらに年月を経た1993年、羽黒山が神子(みこ)修行を女性に開放したのは「参拝者の3分の2が女性であること」を配慮したからだという。大相撲もかなりの部分を女性人気が支えているはずだし、公益財団法人なので、当然女性が払った税金が注ぎ込まれている。

 1952年には、東西南北それぞれの神を司る“神器”と呼んでもいい四本柱を「客席から見づらいから」とさらりと撤去したのに、女人禁制だけは頑なに解かない不思議。基準は何なのだろう? 前出の『女人禁制』の中の「ある時期に生成された『創られた伝統』(invention of tradition)」というフレーズが目に止まる。

 番付という絶対的ヒエラルキーの中にいた力士が、そのまま運営の幹部を務めるという“脳みそ筋肉”な協会のシステムがある限り、女人禁制はなくならないだろうが、女装しているけれども月経がなく、出産はできず、戸籍上は男性のマツコ・デラックスは土俵に上がれるはずだ。

 ただし“秩序を乱す”女装のままだったら、“穢れている”<として、やっぱりダメなのだろうか。

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