劇場へ足を運んだ観客と演じ手だけが共有することができる、その場限りのエンタテインメント、舞台。まったく同じものは二度とはないからこそ、時に舞台では、ドラマや映画などの映像作品では踏み込めない大胆できわどい表現が可能です。その最たるものは、もちろん性描写です。過激な性描写によって人間の本質に迫ることで定評のある演出家に、劇団「ポツドール」を主宰する三浦大輔がいます。
10年ほど前、ある著名な放送作家に取材した際「ポツドールのような表現は、映像では絶対に不可能だ」と聞いたことがあるのですが、優れた表現者がジャンルを超えて活動の場を求められるのは、現代のメディアミックス時代では当然のこと。舞台だからこそできたはずの劇団作品の映画化も含め、三浦大輔は映画監督としても活躍中です。
現在上映中の映画で、第一線で活躍するイケメン俳優・松坂桃李の主演作にも関わらず、18歳以下鑑賞禁止のレーティング付きで話題になった『娼年』も三浦大輔の監督作品。同作は2016年、同じく松坂桃李主演かつ三浦大輔演出で舞台化されています。舞台ならではの表現に卓越した三浦大輔が、同じ題材と演じ手を用いて映画化すると、どのような変化が起きるのか。舞台版を振り返りながら比べてみました。
『娼年』は、2001年の直木賞候補になった石田衣良の同名小説が原作。名門大学に通う学生でありながら日常生活にも女性関係にも退屈し倦んでいる主人公のリョウが、ボーイズクラブのオーナー・静香(映画版は真飛聖、舞台版では高岡早紀)との出会いから、女性に対して体を売る「娼夫」としての仕事を通し、女性とセックス、そして人生の素晴らしさを知って成長していく物語です。
三浦作品に特有のエロス
監督とともに脚本も手がけている三浦大輔は、劇団上演作の『愛の渦』で2006年に岸田國士戯曲賞を受賞。男女の乱交パーティーを題材にした作品で、フランスの演劇フェスティバルで上演された他、2014年には映画化され、主演の門脇麦の体当たり演技でも好評を博しました。2010年に作・演出した『裏切りの街』は2016年に配信ドラマ化されたのちに劇場公開されるなど、演出した演劇作品を自らの監督で映画化している本数が多いクリエーターです。
※以下、ネタバレを含みますのでご注意ください。
リョウが仕事を通して出会う女性たちは、年齢も職業もさまざま。もちろん、抱えている欲望やセックスに求めるものも千差万別で、必ずしもリョウと体を重ねることを目的としているわけでもありません。子供の頃に好きな人の前で漏らしてしまった経験から放尿を見ないと絶頂を味わえないキャリアウーマンや、互いの愛を確かめ合うためにシチュエーションを作り込む年の差夫婦のサポート、着物をしっとりと着こなす老齢の未亡人などとの“仕事”、時には同僚の娼夫との同性愛行為を通して、他人の心に寄り添うことを覚えていったリョウは、次第に静香への恋心を募らせていきます。
映画版も舞台版も、松坂桃李が頻繁に全裸になり、意外とボリューミーなお尻まで出し惜しみなく披露するのは同じです。しかし、舞台版で印象的だったのは、セックスシーンの生々しさでした。演出が過激、といっても、ベクトルはそれぞれです。行為をリアルになぞれば過激、というわけではなく、三浦演出の鋭さは、小道具として経血が漏れた下着を女優にはかせるような方向性。
セックスそのものは、写実的に演じるよりも演劇的なイメージ表現をすることで、よりエロチックに描写することも可能なものですが、『娼年』ではあえてセックス中の水音や使用後のコンドームを外す様子、その中に白い液体が入っているところまでこだわって再現されていました。ボトムを脱ぐ時に、リョウは手で下ろさずに左右の足を交互に使って脱ぎ捨てたのですが、個人的にはそうやって脱ぐ男性と遭遇したことがあまりないため、目の前で本当に他人のセックスを垣間見てしまったような衝撃がありました。
舞台では、視線をどこに向けるかは観客の自由です。たとえ松坂の裸のお尻がこっちを向いていても着衣のままの女優に目がいったり、物語の本筋とは関係のない何かを眺めたりすることもありますが、映画では視点は固定されるもの。編集の意図をより深く伝えられるのは、写実的である以上に映画の利点と言えるかもしれません。
映像作品でのリアルさの追求は、舞台に比べれば遥かに容易です。ですが、映画版ではセックスシーンの再現のこだわりをそのままに、女優の身体よりも松坂の顔が映っている時間のほうが長いように感じました。冒頭では毛穴はつまって無精ひげも汚い松坂が、初めての仕事後に目を真っ赤に充血させて何かを感じ取っているさまや、仕事を重ねるにつれ身だしなみも表情もすっきりとしてくる様子が、リョウの内面の変化も強調。これは、映像作品だから可能な意図なのでしょう。
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