
Thinkstock/Photo by allanswart
土俵の「女人禁制」問題は、これまで何度も社会的な議論の俎上に載せられてきたが、いつも何も変わらないままだった。先月初旬の大相撲舞鶴場所をきっかけとしたムーブメントは、「ちびっこ相撲」の件も相まって、いつになく盛り上がったが、ひと月で早くも終息しつつある。
日本相撲協会は、「ちびっこ相撲」については「女人禁制」とは無関係としているが、女児が参加できなくなった理由をうまく説明できていない。結局、「ちびっこ相撲」は、性別を問わず一旦休止ということになった。
今回の問題に関してテレビの情報番組に出演していた大相撲評論家は、2012年から昨年まで「ちびっこ相撲」に女児が参加できていたことについて、「相撲人気に陰りがあったからですよ。今は持ち直してきたから、また禁止にしたんでしょう」とコメントしていた。この人は、「女人禁制」賛成派である。“人気がないときは仕方がないが、人気が戻れば「女人禁制」は当然”と考えているのだ。
同じ番組に出演していた相撲協会関係者は、「伝統ですから」を繰り返しながら、「これは区別なんですよ。夫婦茶碗と同じです。あれを差別だという人はいないでしょう?」とコメントしていた。「伝統」「差別ではなくて区別」、そして「差別ではなくて区別」論の例として(例としてふさわしいとも思えないが)挙げられる「夫婦茶碗」。いずれも差別を肯定する際によく使われる言葉である。
4月28日に、日本相撲協会が八角理事長の談話を発表しているが、そこでは土俵に女性を上げない理由について、「第一に相撲はもともと神事を起源としていること、第二に大相撲の伝統文化を守りたいこと、第三に大相撲の土俵は力士らにとっては男が上がる神聖な戦いの場、鍛錬の場であること、の3つです。第一の『神事』という言葉は神道を思い起こさせます。そのため、『協会は女性を不浄とみていた神道の昔の考え方を女人禁制の根拠としている』といった解釈が語られることがありますが、これは誤解であります。(後略)」とある。
第一について。「女人禁制」は女性に対する「不浄」視を根拠としているわけではない、という点を強調しているが、「女人禁制」を問題視している人たちの多くは、女性が「不浄」か否かということではなく(「不浄」な存在でないことは明らかなので)、女性であるという理由で上れないことを問題視しているのではないだろうか。なるほど、肯定派と否定派で議論が噛み合わないわけである。
第二の「伝統」について。ここしばらく「ちびっこ相撲」への女児の参加が許されてきた背景に「相撲人気の陰り」があったとのことだが、江戸時代に禁止されていた女性の相撲観戦が明治に入って解禁されたことについて、早稲田大学教授のリー・トンプソン氏は、「興行上の理由でしょう」(朝日新聞五月六日)と述べている。舞鶴場所では、人気に左右される程度の「禁制」を救命よりも優先したことになる。氏はまた、「横綱も優勝制度も創られた伝統だ」と説いている。つまり、相撲界の「伝統」はその都度、恣意的に変えられてきたのである。
ちなみに、一般的に「女人禁制」の根拠は、出産や月経による「血の穢れ(血穢)」に求められるが、日本における「血穢」制度の始まりと終わりも恣意的だった。
「血穢」制度は、平安時代の政治的な揺らぎの中で、家父長制を強化するために中国から導入されたということがわかっている。「弘仁式」(「産穢」のみ)、そして「貞観式」「延喜式」に規定された「血穢」がいつ廃止されたかといえば、明治五(1872)年である。たまたま大蔵省を訪ねた「お雇い外国人」が、幹部が妻の「産穢」を理由に欠勤していることに驚き、「これから近代化を目指そうという国が何をやっているんだ」と抗議したことがきっかけだった。1000年続いた「血穢」の「伝統」は、「遅れた国だと思われたくない」という理由であっさりと廃止されたのである。
八角理事長の談話には、「力じまんの男たちが強さを追求するにはこれらの伝統のすべてが欠かせないと、私どもは先人から教え込まれてきました」とある。教え込まれたから守らなければならないというのは、単なる思考停止状態である。歴史を振り返るまでもなく、硬直化した文化や組織は衰退していく。土俵の「女人禁制」に固執する相撲界が今後どうなっていくのか、見守っていきたい。