人と食事をして、その感想を語り合うのは楽しい。舌に触る温度。体じゅうに染み入る味わい。歯を喉をくすぐる感触。鼻に抜ける香り。口の中で起こっていることは他人とは共有されないのだし、食べ物の好みも心が惹かれる要素も、もっと言えば味覚という感覚の広がり具合でさえ、人それぞれで大きく違っている。ともに食卓に着き、同じものを口にしているときでさえ、互いの「食」の体験を正確に理解することはできないのだ。
しかしだからこそ、私たちは言葉を尽くそうとするのかもしれない。積み重ねられる言葉によって、自分と相手の輪郭が照らし出され、次第に明瞭になっていく。それが細やかで正確であればあるほど、自分と誰かの間にある距離が埋まっていくような感じがする。その感覚が味わいたくて。
だけどとてつもなく美味なものを口にしたとき、人はしばしば言葉を失う。目を見開き、喉を詰まらせ、「おいしい」というたったひとつの語しか発することができなくなる。これおいしい。これもおいしい。おいしいね。うん、おいしい。それは何かしらの意味を結ぶ言葉というよりは、恍惚と興奮の最中で自然に漏れ出る喘ぎのようなものに近い。ああ、すっごくおいしい。
「おいしい」という言葉は稚拙で単純でぼんやりしている。自分自身、それしか言えなくなってしまうといつも「語彙がなくなったな」と思う。そういうときには、同じ食卓に着いた相手も同じように語彙を失っているものだ。互いの「おいしい」が指し示すものを、私も相手も正確には把握していない。だけどなんとなく胸の内には、相手の抱く「おいしい」がもやもやと煙るように、ちらちらと塵がきらめくようにして広がっている。たぶんこれが好きなんだろうとか、こういう味の組み合わせに感動するんだろうとか。とくに答え合わせをすることはない。でもきっと、互いに近しい快さを感じている気がする。そうだったらいい。
日常のコミュニケーションにおいて私たちが求められるのは、言葉を尽くし、互いの意図するところにできるだけ正確にたどり着くということだ。言葉によって照らし出すということ。見たいと望むものに光を当てて、その輪郭を明らかにするということ。
だけど暗がりの中で目を凝らしあうような、そういうコミュニケーションの取り方だってあっていいのだと思う。それは不確かで曖昧で、もしかしたら私とあなたが共有していると思っていることは全然共有されていなくて、理解していると思っていることだって少しも理解できていないのかもしれない。でもたぶん、それでいいのだ。
私たちは食卓の上でため息を交換する。私とは違うあなたの「おいしい」を想像しながら、そのひと息に含まれる温かくて湿った感覚を、きっと今ここで分かち合っているのだと信じている。なんとなく、ぼんやりと。「おいしいね」「うん、おいしい」と、輪郭の見えない言葉をまとわせながら。